彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

朝鮮人街道の謎に迫る その4 幕府の街道政策の中で

 今回は、朝鮮人街道が江戸幕府の街道政策においてどのような位置づけであったのかを考えたい。

 

 まず前提として、幕府の管轄していた街道の区分を確認しておくと、

  Ⅰ 道中奉行の管轄していた五街道およびその附属街道

  Ⅱ 勘定奉行が地元領主を通じて取り扱った脇往還

に大別できる。


 中山道は当然五街道に含まれるが、朝鮮人街道はどういった位置づけであったのだろう。
 これを的確に示しているのが、道中奉行が作成した五街道他の「見取延絵図」であろう。道中奉行が支配下の街道を調査して作製し、文化3年(1806)に完成したものである。この時作製された絵図の一つに「朝鮮人道」があるため、この街道が道中奉行の管轄する街道であり、上記Ⅰにあたることがわかる。


 また、道中奉行から各宿へ宛てた文書を見ると、鳥居本・高宮など中山道の宿駅一斉に出した文書の宛先に「彦根」が含まれることがある。
 この「彦根」とは、朝鮮人街道が彦根城下町に引き込まれ、城下の伝馬町に置かれた宿駅「彦根宿」のことである。
 幕府は、荷物を輸送させるため伝馬宿継の仕組みをつくった。宿駅に一定数の人馬を配置し、それを使って荷物を次の宿へと継ぎ送る。宿駅の中で伝馬宿継を担った施設が問屋場である。

 

 伝馬町内には問屋場が置かれ、荷物を輸送する人足と馬が常備されていた。また、宿場の中央には他の宿駅と同様、幕府の基本法令などを記した高札が掲げられており、その一枚には彦根宿から鳥居本宿と高宮宿への公定賃銭を記した札もあった。つまり、鳥居本彦根間と、彦根-高宮間は、中山道から彦根城下町へ引き込まれた街道としての機能を有していた。
 一方、彦根宿から南下する方向へは日常的に公的な荷物を輸送することを想定しておらず、臨時に幕府公用の荷物を運ぶ時には彦根藩領の四宿から人馬を呼び寄せて御用を務めることになっていた。

 

 以上より、朝鮮人街道は幕府の管轄という点では中山道の附属街道という位置づけであったが、伝馬宿継の機能を持つのは鳥居本彦根間だけで、それ以南は日常的な幕府公用の通行が想定されておらず伝馬宿継機能を持たなかった。


 他の街道とくらべると、この街道に与えられた機能は限定的であったといえるだろう。

 

 

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