彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

朝鮮人街道の謎に迫る その1

近江(滋賀県)には、通信使一行が通ったことでその名前がつけられた街道が残っている。野洲市から彦根市にかけて、中山道から分岐してその西側の琵琶湖岸との間を通る「朝鮮人街道」と呼ばれる街道である。他の通信使ゆかりの地には見られず、近江独自のものである。
 (中略)
朝鮮人街道やそこを通った朝鮮通信使について、歴史的にどこまで明らかとなっているのか見直したところ、意外と未解明な点が多いことに気づく。朝鮮人街道のルートは特定されており、徳川家康関ヶ原合戦で勝利したあとに京都へ向かった「吉例の道」に由来すると説明されるのが一般的である。しかし、江戸幕府による全国の交通政策の中で考えた場合、朝鮮人街道はどのように位置づけられるのあろう。また、江戸時代の地元史料からはこの街道を「朝鮮人街道」と呼び習わしていた痕跡は見つけにくい。そもそも、いつから「朝鮮人街道」と呼び習わされるようになったのだろう。朝鮮人街道を歴史に位置づけるためには、これらの基本事項から押さえていく必要があると考える。

   (野田浩子『朝鮮通信使彦根』はじめに より)

 

朝鮮通信使彦根』では、朝鮮人街道は江戸時代初期、幕府によって整備された街道の1つという視点から街道の特質を検討し、これまで明らかとなっていなかった点について考えてみた。

この街道は、整備された段階として次の3つに区分できる。

  1. 中世段階(信長による整備以前)
  2. 織田信長による整備
  3. 江戸時代初期の整備

本論での関心はⅢの成立なので、特にⅡからⅢへの変化について、

  • ルートの変更
  • 整備の時期と目的

の2点から考えた。

 

今回は考え方の提示のみ。詳細は次回にて。

 

 

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