彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政の菩提所 その5 井伊谷・龍潭寺

 井伊氏の出身地にある井伊谷静岡県浜松市北区)にある龍潭寺は、戦国時代の井伊氏によって建てられた菩提寺である。龍潭寺という名は、桶狭間で討ち死にした当主井伊直盛院号に由来する。

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井伊谷龍潭寺


 境内の一角に、「井伊氏歴代墓所」が築かれており、井伊氏の元祖とする共保から直政までの墓石が並んでいる。
 また、御霊屋には、共保、直盛とともに直政の坐像が安置され、あわせて井伊家歴代の位牌も祀られている。

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井伊谷龍潭寺にある井伊家歴代墓所とその説明板

 井伊家の菩提寺に祀られているため、これらの井伊家一族は一見すると史実として信用できそうであるが、実はそう簡単なものではない。
 それは、これらは、江戸時代中期の龍潭寺によって創作された歴史観を表現したものといえるからである。

 龍潭寺住持の祖山が著した『井伊家伝記』という歴史書がある。いわゆる「女城主直虎=次郎法師」もここに描かれている。
 しかし、同時代の史料と照らし合わせたところ、一致しないところが多く、『井伊家伝記』が描く歴史観や戦国期井伊家の人物関係は祖山によって創られた箇所が多くあると考えられる。同時代史料に登場する「次郎法師」を直盛の娘と比定したのもその1つで、直盛から直政へと家督継承された説明するには、直盛の血統を継ぐ者が直政の前の当主である必要があったため、そのように創作されたと推測できる。
 
 では、『井伊家伝記』史観はいつ創られたのか。それは、正徳元年(1711)に祖山が井伊共保出生の井戸の管理権を主張して隣村の正楽寺と争い、幕府寺社奉行へ訴訟を起こした際、寺院の由緒を述べる必要が生じたことに端を発する。祖山は、この争論に勝つため、彦根藩・与板藩両井伊家に相談し、幕府へ訴訟することを決め、訴状・証拠書類の作成も両藩士の助力を得た。

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井伊共保出生の井戸

 この時まで、両井伊家では直政以前の井伊家先祖について、「寛永諸家系図伝」に記された程度しか情報を持っておらす、祖山が示す井伊家先祖に関する新しい歴史は、魅力的なものであった。そのため、わからない点は祖山に尋ね、祖山から口頭または文書で回答が出された。次郎法師が直盛の娘であるという説もこの中で初めて登場する。
 この訴訟は、幕府の文書事務に精通した彦根藩士が味方した龍潭寺の勝訴に終わった。『井伊家伝記』によると、訴訟のため江戸にいた祖山は、彦根藩井伊直興に対して先祖を供養するよう勧めると、直興は直政・共保の御影や歴代の位牌を造り、それを納める廟所仮屋・位牌堂を建立するようにとして、費用130両を下賜したという(直盛の御影はすでにあった)。
 引き続き、直興は龍潭寺井伊直親(直政の父)の150回忌法会を執行するようにと指示し、正徳4年には、直興が隠居して彦根へ帰国する道中、井伊谷に立ち寄って龍潭寺へ参詣した。この時も多額の香典を下賜している。

 『井伊家伝記』は、享保15年(1730)に祖山が著したが、その内容は正徳元年の訴訟にあわせて井伊家に述べた由緒に基づいている。もちろん史実と認められる内容もあるが、すでに戦国時代に、井伊家の先祖系図を造る中で、史実と史実の間の不明な点に創作が加えられていた。それを読んだ祖山も、同様の創作を加えて井伊家に由緒を述べていた。さらに祖山は、井伊家断絶の危機にあって、直政へ継承できた背景に龍潭寺の貢献があったというエピソードを『井伊家伝記』に多数盛り込んだ。
 つまり、『井伊家伝記』とは、史実をベースに創作を加えた、歴史小説ともいえるものである。

 龍潭寺の井伊氏歴代墓所は、彦根藩主からの寄進を受け、その先祖供養の意図を受けて整備したものであるが、彦根藩主へ説明したのが『井伊家伝記』史観である以上、その歴史観に基づいて整備されたのは自然な流れといえよう。