彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政の菩提所 その1 長松院

 戦国武将や江戸時代の大名は、菩提寺のほかにも、ゆかりの地に廟所・供養塔が造られたり、位牌が置かれて供養されていることがあります。井伊直政の場合も墓所のある清凉寺のほかにゆかりの菩提所がいくつかありますので、それぞれを紹介していきます。

 

まずは、荼毘の地、長松院。

 直政は、関ヶ原合戦の約1年半後、慶長7年(1602)2月1日に佐和山城で死去した。42歳。関ヶ原合戦前から体調不良に悩まされていた上に、合戦で鉄砲傷を負っていた。そのため、慶長6年3月に佐和山に入るとまもなく、伊豆へ湯治に出かけ、同年12月には有馬へも行っている。しかし湯治により体調を回復させることはできなかった。
 直政の遺骸は、善利川の中洲で火葬された。
 その跡地には長松院という寺院が建てられている。城地が佐和山から彦根に移されたことにより、直政火葬の地は城下町の中心地に位置することになった。しかし、直政が死去した時にはここに城下町を築く計画はまだなされておらず、佐和山方面から見て、城下町の先に流れる善利川の向こうにあたる「彼岸」の地で荼毘に付したと考えられる。

 

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 長松院に伝わる由緒書「彦根長松禅院記」によると、火葬の地に兵器を副葬して塚を建てた。当初は家臣の脇・秋山・越石の3名昼夜交代で番をしていたが、彼らには通常の勤めもあるので、越石の親族である永胤老師を甲斐国から招き、師がここに長松院を建立したという。
(「彦根長松禅院記」の全文は長松院のサイトに掲載されています)

長松院のサイトはこちらから→  萬年山 長松院 - 井伊直政公の寺 長松院

 

 墓地の一角に、直政の供養塔とそれを示す碑が建てられている。

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 碑には「井伊直政公火化委骼之処」とあり、側面には明治34年の直政三百回忌に旧領内有志の者が建てたと記す。「火化委骼」(委骼を火化す=遺体を火葬する)の文言は「彦根長松禅院記」からの引用。
 碑の文字は旧彦根藩士の西村捨三の筆。西村は維新期彦根藩の中核にいた人物で、明治政府では内務官僚・沖縄県令・大阪府知事などを歴任した。
 明治34年には、彦根で直政入部三百年を記念する「彦根城開城三百年紀年祭」が大々的に実施されたが、これを実質的に取り仕切ったのが西村であった。長松院の直政供養塔の整備も、紀年祭の中の一事業として藩祖直政を顕彰する企図のもとで実施されたものである。