彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

史料に登場する井伊直政の足跡 第8回藤森の警固

 実際に交戦のあった戦いでは、それぞれの部隊がどのような規模でどのような動きをしたのかといったことはよく紹介されているが、実戦にはいたらなくとも、軍事部隊が出動する機会は多くあった。規模の大小はあれ、日常的にも城の入り口や領地の境界、交通の要衝などに兵を配置しており、軍事的緊張が生じると軍事上の要地の警備を強化していった。

 

 井伊直政の部隊が、関ヶ原合戦前の政情不安な頃に伏見と京都を結ぶ街道を警固していたことが史料上、確認できる。

 慶長3年(1598)8月、豊臣秀吉が死去した時点では、直政は部隊を率いて在京していた。徳川家康は豊臣政権の大老として在京しており、その家臣たちは5つの組を編成して、原則として半年交替で家康の周辺を警固した。
 5つの組の1つを率いていたのが井伊直政で、同年2月頃から番役のため在京していたようである。本来ならば8月に帰国するはずであるが、秀吉の重体から死去という政情不安を受けて、直政は引き続き京都に滞在していた。


 秀吉が死去する直前の慶長3年6月、直政の部隊は伏見から京へ向かう街道上にある藤森で警固していたが、同月16日、伏見城下で騒動が生じたので直政は家康のもとへ駆けつけて騒動の元を探ったと「寛政重修諸家譜」に記されている。
 この話の元を探ると、家康家臣の戸田氏鉄による「戸田左門覚書」にたどりつく。
 そこには、6月16日、嘉定の祝儀のため秀吉は石田三成浅野長政長束正家らと対面したが、その際「秀頼が15歳になれば天下を譲ろうと思う。秀頼を天下の主としてこの祝儀を見るのが本望であるが、命が尽きるため残念だ」と述べ、それを聞いた者は涙して退出したため、周囲の者は秀吉が死去したと勘違いしてそれが広まり、騒動となったという。伏見の騒動を聞きつけて、直政は藤森より家康のいる伏見の屋敷に参上したとある。

 秀吉が重篤な状態となり、騒動となったのはこの日以外にもあり、また、史実としては6月16日には石田三成は九州に出向いており伏見にはいないため、上記の逸話がどこまで真実か疑わしいが、この頃秀吉の病状が悪化しており、それに伴って伏見周辺が慌ただしくなっていたのは事実であろう。

 また、「慶長見聞書」には「伏見騒動之事」として6月16日と7月16日の夜に伏見で騒動があったと記す中で、井伊直政榊原康政本多忠勝水野忠重などが藤森に屋敷を置いていた。ただこの時は直政だけが伏見にいたとする。

 

 伏見城下町の諸大名屋敷配置図はいくつか現存するが、後世に伝わった伝承を地図に落としたという性格が強いものであり、描かれている内容だけから秀吉時代の大名屋敷の配置を正確に復原することは困難である。

 藤森は、伏見城下町の最北端で、京都へとつながる街道沿いに位置する地で、街道沿いには藤森神社が現存する。
 「戸田左門覚書」も「慶長見聞書」も同時代史料ではないが、実際に警固を務めた経験を持つ徳川家臣が江戸時代初期には多くいるはずなので、ここに記されていることは架空のものではないだろう。 

 伏見城下町の絵図を見ると、藤森の北側、稲荷方面へ続く街道近くに伊達政宗下屋敷は示されている。そのほか、藤森神社の周辺にも武家屋敷が建ち並んでいる。「慶長見聞書」にあるように、徳川家臣の駐屯地が藤森周辺に置かれていたのか、それとも別の所にある徳川の下屋敷に住まいながら、警備のために藤森へとやってきていたのかは不明であるが、直政が藤森・伏見や京を行き来しながら治安維持にたずさわっていたのは確かであろう。

 

 直政は翌慶長4年7月末に伏見から関東へ帰国する。家康と石田三成らとの間での政争が一段落したので、ようやく帰国することができた。半年の在京の予定がその3倍も滞在しており、家臣ともども「くたびれた」という感想を残している。

   

 

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 伏見城下町復原図 『京都の歴史』第4巻より