彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

史料に登場する井伊直政の足跡 第7回岐阜城攻め

 ”天下分け目”の関ヶ原合戦(慶長5年9月15日の関ヶ原での戦いだけでなく、同年7月の石田三成挙兵から講和成立まで)の中で、東軍(徳川勢と親徳川の豊臣諸将)が岐阜城を1日で落城させたことが、その後の戦況に大きく影響したことはよく知られている。

 今回は、岐阜城攻めの中で、井伊隊がどのように行動し、諸隊の中でどのような位置づけであったのかを見ていきたい。

 岐阜城攻めを行ったのは、会津出兵へと向かっていた諸勢のうち、東海道を西上して清洲城に集結していた諸将であった。福島正則池田輝政をはじめとする豊臣恩顧の諸将らがその中心を占めていた一方、徳川家臣は部隊を率いているのは井伊直政のみで、それに本多忠勝が体調面の不安な直政を補佐すべく同行しているに過ぎなかった。


 8月14日、直政は諸将とともに清洲城に入り、家康の到着を待ったが、家康は出馬する様子を見せず、代わりに村越茂介を使者として遣わした。この時の逸話として、諸将は家康が出陣する気配を見せないことを村越に詰問したところ、村越が「諸将が手出しをしないから家康は出陣しない」と言い放ったため、即時岐阜城を攻めることを決定したという。この挑発的な発言は逸話に過ぎないが、このとき諸将が岐阜城を攻撃するという作戦を立てて実行に移したことには間違いない。

 岐阜城へは二手に別れて進軍することになった。直線的な上流のコースは池田輝政浅野幸長山内一豊らが進み、美濃路を通って尾越(現行地名は起)で木曽川を渡る下流コースは福島正則細川忠興黒田長政藤堂高虎らが進んだ。直政も下流コースに同行した。

f:id:hikonehistory:20181009183127p:plain地理院タイル(淡色地図)に文字を貼り込んだ

 21日、各勢とも清洲城を出発し、二方向にわかれて進軍を開始した。
 22日、直政の属する下流組は木曽川を渡って竹ヶ鼻城を落城させた。そうしたところ、上流組が敵の攻撃を受けながらも木曽川を渡り、岐阜城の北方へ陣を置いたことを聞いたので下流組も夜のうちに岐阜城下まで兵を進め、翌23日、一斉に攻撃して、その日のうちに岐阜城を落城させた。

 下流組の中での井伊隊の位置は、21日は先手の福島隊に続いて進軍していたが、22日の軍議で諸将から、全軍の後尾につくようにとの申し入れがあり、直政はそれに従っている。直政としては、福島を見張る位置にいたかったが、豊臣諸将とむやみに争うことは避けて、彼らの言い分を受け入れたのであろう。

 23日の岐阜城攻めは、福島ら下流組が城の正面にあたる追手口から攻め、池田ら上流組が搦手から攻撃した。

 井伊家では、後世、岐阜城攻めのことを「瑞龍寺城攻め」などと称しており(「侍中由緒帳」木俣清左衛門)、また、伊奈波神社裏の松田十太夫が守る砦を攻略したともいう。瑞龍寺は、現在も岐阜城のある金華山から続く山の南端の麓に建っているが、その背後にある山を瑞龍寺山という。つまり、南方から進軍していたことがわかる。

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 岐阜城攻めは、豊臣諸将が家康に味方して大坂方(石田三成大坂城の秀頼)と対決する姿勢を示すことに意味があり、徳川家臣である直政が先陣を切って戦う場ではなかった。直政自身も、自分は諸将の間を調整して彼らの戦功を家康に報告することだと認識している。
 それでも、井伊隊が金華山を取り囲む諸勢の一翼を担い、岐阜城を1日で落城させるのに貢献したのは間違いない。

  

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