彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

史料に登場する井伊直政の足跡 第3回井伊隊はじめての出陣「高遠口」

久しぶりの更新となります。「史料に登場する井伊直政の足跡」第3弾です。

今回は、井伊隊がはじめて家康から出陣を命じられた「高遠口」の地を探します。

 

 天正11年(1583)正月12日付で、徳川家康から井伊直政へ宛てた直筆書状が残っている。そこには
「急ぎ飛脚をもって申します。高遠口へ押さえの軍勢を遣わしました。その方の同心の物主を遣わすようにと申したかどうか忘れたので、飛脚で伝えます。申していなければ清三郎か誰かを遣わすように」
と記されている。

徳川家康自筆書状 井伊直政宛 | 彦根城博物館|

 

 家康は、前年の天正10年に甲斐に兵を出し、北条氏との戦いに勝利して甲斐を手中に収めていた。年末に甲斐を出立して浜松に戻っており、浜松でこの書状を書いたと思われる。
 井伊直政は、徳川の甲斐出陣の際、22歳にして初めて一人前の仕事を命じられる。徳川と北条が約100日間も兵を対峙させている間、地元の武田旧臣を徳川に帰属させる交渉を担当し、北条との講和協議に際しては使者を務めた。このような活躍の場が与えられ、直政は家康の期待に応える働きを見せた。そのため、武田旧領と旧臣が徳川に入った段階で、家康は武田旧臣のうちの4部隊や、元から井伊氏の軍事指揮下にあった西遠江武家らをまとめて直政の配下に付けて、直政を侍大将に取り立てた。
 この書状で出てくる「清三郎」とは、木俣守勝のことである。木俣は家康家臣であったが、天正10年頃、直政を補佐するようにと付けられた。木俣は伊賀越えにも同行し、武田旧臣の帰属交渉に関わっているので、それ以前に直政のもとに付けられた可能性が高い。直政が侍大将となると、木俣に武田旧臣らを統率する役割が与えられた。この書状にある「同心の物主」がそれに該当するといってよいだろう。

 同心とは、戦国時代の大名家臣団にあって、いわゆる「寄親寄子」の「寄子」と同様の立場にある。寄親という軍団を率いる重臣(ここでは井伊直政)の配下にあり、軍事上も政治的にも指揮下に入った。つまり、井伊の同心とは、形式上は家康の家臣であるが、実際には直政の指揮命令下にあった者を指す。直政を侍大将として附属させた武田旧臣や菅沼・鈴木・近藤の「井伊谷三人衆」も同心に相当する。
 
 この文書では、家康は木俣が同心を統率して「高遠口」に兵を出すよう命令している。
 では「高遠口」とはどこか。高遠とは信州の高遠城であることはすぐにわかるが、「高遠口」は地名辞典を調べても出てこなかった。この文書を最初に解釈したときには、三州街道から高遠城方面へ向かう入り口あたりだろうかと考えていた。

 ところが、天正11年初頭時点の徳川勢の動きを確認しようとして、平山優氏の『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望』(戎光祥出版、2011年)を読んでいると、井伊隊が実際に出陣していることが別の史料に記されているという。
 
 天正10年8月から10月にかけて、徳川と北条が甲斐で対立していたが、その間、同じ武田旧領であった信濃では、地元の勢力が徳川・北条らと味方する駆け引きをしつつ、支配領域の拡大を狙っていた。その一人に小笠原氏がいる。小笠原長時信濃守護の家柄の戦国大名であったが、武田信玄に攻め込まれて滅ぼされてしまった。長時の3男である小笠原貞慶は、武田と織田信長の滅亡による混乱に乗じて信濃に戻り、旧領を回復した。貞慶が信濃に入ったときには家康の支援があったが、北条勢が信濃に兵を進めて周囲に北条の勢力が強くなる中で、小笠原氏も徳川から離反して北条に味方することを決めた。


 徳川と北条の対立が一段落した頃、信濃では小笠原氏と対立する保科正直・諏訪頼忠が徳川に帰属したため、天正11年正月、家康は保科・諏訪への援軍を信濃へ送った。冒頭の直政に宛てた書状も、この派兵に関わるものと考えられる。
 実際、直政を大将とした甲州の兵と信州伊奈・諏訪の兵が出陣し、栗馬場・熊井原(塩尻市)に備えを立て、それに対して小笠原氏側は桔梗原(松本市)に物見を出したと、小笠原氏側の史料に記されている(「笠系大成」「岩岡家記」)。
 そうであれば、直政隊は甲府から諏訪湖に向かう街道を進んだのであろう。この街道は、江戸時代には甲州街道の一部で、現代では中央自動車道が通っている。このように考えれば、「高遠口」は甲州街道の茅野あたりで高遠方面へと杖突街道が分岐する地点あたりのことではないだろうか。

 

国道152号線が杖突街道。南下すると高遠に至る。 

 

もっとも、実際に井伊隊が兵を進めた地は、高遠口からさらに進んだ栗馬場・熊井原となる。栗馬場は、現行地名ではわからなかったが、熊井は塩尻市に北熊井城跡・南熊井城跡があり、このあたりと特定できる。 

 

追記 数年前に高遠から杖突峠を越えて諏訪方面に行ったことがありますが、そのときは、高遠口は探し出せず、杖突峠方面とは思い至りませんでした。わかっていれば写真を撮ったのに。そのとき撮った諏訪大社の写真をあげておきます。

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