彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

史料に登場する井伊直政の足跡 第1回「大鳥居土佐屋敷」を探す

 井伊直政の事績を調べ、いつどこにいたのかという行動ルートを史料から追っていったところ、すぐに判明したこともありますが、場所が特定しづらい場合もありました。場所がわかっても、なぜこの場所なのか? と考えが広がることもあります。そういった場合、現地に行くと、なるほど、と納得できたこともありました。
 そこで「史料に登場する井伊直政の足跡」をテーマとして、史料上で直政が出かけたとされている場所を探しに出かけ、実際に現地を訪れて考えたこと、わかったことを紹介します。

 

第1回は、次の文章で示した「大鳥居土佐屋敷」を探します。

 

大鳥居氏の由緒書(「侍中由緒帳」)によると、直政は大鳥居満氏の屋敷を陣場として滞在し、その縁で直政から仕えるように言われたが、満氏は老齢のため、息子の満経と満利が直政に仕えたという。
 (野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣の軌跡』57ページ)

 

 まず、この文章の典拠である「侍中由緒帳」の表記を確認しておこう。
 大鳥居家初代の大鳥居土佐(諱は満氏)は、生国は近江で、その後甲州に行って武田信玄に奉公したが、勝頼の代に暇を得て、その後も甲州国内にいたところ、「直政様右の大鳥居土佐屋鋪御陣場に遊ばされ、その節御奉公をも仕上げ申し候由緒をもって、御帰陣後召し出さるべきの旨仰せ付けられ候えども、土佐年まかり寄り候につき、忰大鳥居玄蕃・同左吉召し出され候」
 (「 」内は読み下し文)

 

 この史料によると、井伊直政甲州に滞在中、大鳥居土佐の屋敷を陣場として滞在したことがあったという。そこで、その屋敷の場所と直政の滞在時期を考えていきたい。

 

 大鳥居屋敷の場所については、手がかりとなる資料が2つある。

 1つは地名。『侍中由緒帳』の解説によると、大鳥居家に伝わった系図には大鳥居土佐は甲斐国大鳥居村に居住していたと記されているという。もっとも、系図や「侍中由緒帳」では、大鳥居氏の名字の地は近江栗太郡大鳥井で、近江から甲斐に移ったとするが、これは佐々木源氏の末裔と称するために創られたものと見られる。実際には甲斐の大鳥居村が名字の地であろう。
 甲斐国内の大鳥居村を地名辞典で調べると、八代郡に次の2ヶ所がみつかった。
  ・市川三郷町下大鳥居(旧市川大門町
  ・中央市大鳥居(旧豊富村
 戦国時代、近くには駿河から甲府に抜ける街道が通っており、市川大門宿が地域の中心地であった。どちらの大鳥居村も、市川大門宿の近郊に位置している。

 もう1つの手がかりは、天正10年(1582)11月に大鳥居土佐宛に出された徳川家康朱印状である(『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』56ページに写し(彦根城博物館所蔵)の図版を掲載)。これは徳川の配下に入るにあたって従来の領地や権限を認めた本領安堵状で、そこには、本領として野牛島郷(やごしま、南アルプス市)と市川新所(市川三郷町)の地名が出てくる。大鳥居が居住していた場所は不明であるが、この2ヶ所であれば市川新所の方が可能性が高いのではないだろうか。

 その理由は、2つ考えられる。
 ①名字の地である大鳥居村に近く、本領安堵状では市川新所に2筆(市川新所内、同所村松分)書き上げられており、野牛島よりも本拠としていた可能性が高い。
 ②直政が宿所とするならば、地域の拠点のはず。

 そこで市川新所について調べると、市川は古くからの地域の中心地で、甲斐源氏の祖(つまり武田氏の祖)である源義清がこの地に入ったという伝承もある。当時の中心は「平塩岡」という台地上にあったが、天正年間頃、地域の特産であった和紙の紙漉きのために水を求めて、笛吹川沿いに集落を移したのが市川新所という。「新所」とは、旧来の集落を本所と呼ぶのに対する表現である。
 開発工事が天正年間の初め頃に行われていたということなので「信玄堤」で知られる武田氏の治水技術によって、川沿いに町を築くことができたと考えられる。

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現地に行くと、高台の上にある「平塩岡」の地には、平塩寺跡という広い平坦地や「甲斐源氏旧跡」という石碑があった。平塩寺とは、奈良時代行基が創建したという伝承がある大寺院。中世にはここに有力者が住み、地域の中核であったことを窺わせる。

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  では、直政はいつ滞在したのであろう。
 可能性のある時期は2回ある。
 1回目は、天正10年3月、武田氏が滅亡する戦いの時、家康は駿河から北上して市川に陣を構えた。これに直政が同行したことを示す記録は見当たらないが、当時、直政が家康の近習であったことを考えると、通常ならば同行しているだろう。
 ただし、この時の家康本陣は平塩寺跡に置かれたといわれている。この頃はすでに新所が開発されて集落は麓に移動しており、平塩寺もすでに荒廃していたということなので、家康が陣を敷くには最適の場所である。直政が同行していたとしても、平塩寺跡周辺に宿営したのではないだろうか。大鳥居屋敷に宿泊した可能性はゼロではないが、かなり低いだろう。

 2回目は、本能寺の変後、徳川が甲斐の領有を目指して進出し、同じく進出してきた北条と対決していた時である。天正10年8月から10月にかけて、徳川は甲府城新府城を拠点として北条勢と対峙していたが、この時直政は地元の武田旧臣を徳川に帰属させる交渉を任されていた。大鳥居の屋敷に宿泊したことを示す記録はないが、同年11月に家康の本領安堵状が出されているということは、それまでに直政が大鳥居に対面して交渉しているはずである。

 たとえ3月に家康一行の一員として市川に来ていたときに直政が大鳥居と知り合っていたとしても、配下に入るよう誘ったのは8月以降のことである。そう考えると、直政が大鳥居屋敷に宿泊した、という大鳥居家の伝承によって、直政は武田旧臣を帰属させようとして実際に地元の武士のもとへ足を運び、直接彼らと対面して交渉していた様子を窺うことができた。

 一方、大鳥居土佐はどのような人物だったのだろうか。実は大鳥居土佐の名前は、「天正壬午甲信諸士起請文」の中には出てこず、武田の有力武将の配下にあって寄親・寄子の関係を結んでいた武士ではなさそうである。それでも、大鳥居宅に直政が宿泊したということは、大鳥居が地域の有力者であったのは間違いないだろう。その後の大鳥居氏をみると、土佐の息子である玄蕃(諱は満経)は賄役、筋奉行などを務めており、井伊家の財政実務を所管する行政官という性格が強い。これらを総合して考えると、大鳥居土佐が市川新所で地域行政や財政を統括していた実績をみて、直政は彼を自身の配下に入れたのかもしれない。


参考文献
彦根藩史料叢書 侍中由緒帳』10、彦根城博物館
『日本歴史地名大系 山梨県の地名』平凡社
角川日本地名大辞典 山梨』角川書店