彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

「小山評定」は2度あった!

小山評定」といえば、関ヶ原の合戦の直前、会津の上杉氏へ兵を向けていた徳川家康や豊臣恩顧の諸将らが小山(栃木県小山市)に進軍したところで、上方で石田三成が挙兵したことを聞き、引き返して石田方へ兵を向けることを決めた軍議として知られています。

 

最近、「小山評定」は無かったという説も出てきています(白峰旬『新解釈関ヶ原合戦の真実』)。たしかに、諸将が一堂に会して進軍方針をはかったところ、福島正則が家康に味方するとまっさきに発言し、諸将がそれに同意して上方へ戻ることにした、という評定のドラマ的なやりとりは創作されたものとみてよいと思いますが、だからといって小山の地で進軍計画を変更したという事実が否定されるものではありません。

*ここでは、徳川家康が小山で軍事方針を変更したことを「小山評定」とカッコをつけて表現します。


この頃の井伊直政の行動と役割を見ていったところ、小山で徳川家康によってなされた進軍方針についての大きな決断は2度あったとことがわかりました。


1回目は、これまでから知られているように、上杉氏へ兵を向けていたのを引き返すという方針転換です。慶長5年7月26日付の書状で、今日より兵を上らせると述べているので、25日頃に変更を決めたことがわかります。
この時の方針は、
 ①豊臣恩顧の諸将が先行して東海道を西上する
 ②家康もそれを追って清洲周辺で合流する
 ③徳川秀忠を大将とする徳川の主力部隊は、宇都宮周辺で上杉方に対する防衛を整えた上で東山道を上る
という3手にわかれて尾張・美濃方面へ向かい、合流して揃って敵に向かう、というものでした。
これに基づいて26日以降、それぞれが兵を動かしはじめています。

 

ところが、29日頃、家康の元へ大坂方面の新たな動きが報告されました。
第1報の段階では、石田三成らが挙兵したということだけで、大坂城淀殿や奉行衆は家康と対立した訳ではありませんでした。
それが第2報では、「内府ちがいの条々」が出され、豊臣政権が家康を敵としたという情報が入ってきました。もはや家康は政権の一員ではなく、政権と対立する謀叛人という立場になったのです。


そうすると、第1報に基づく軍事計画をそのまま続行するわけにはいきません。しかし各部隊はすでに進軍を開始しています。
そこで、豊臣諸将の中のキーパーソンである黒田長政を呼び戻し、家康・井伊直政と長政とで再度軍議を開きました。

 

軍議の結論は次のようなものでした。


家康に味方をするということは豊臣政権つまり豊臣秀頼に敵対することを意味する。豊臣恩顧の諸将はこれまで、政権の一員である家康にはついてきてくれたが、「謀叛人」となった家康に味方するとは限らない。それを考えると、当初計画通りに家康が彼らに合流するのは危険が高い。そこで、諸将が徳川方に味方することが確実となるまで家康は諸将と合流せず、井伊直政が家康の名代として諸将のもとへ行って、彼らを統率する。

 

この結論は8月3日に決定したようで、4日付で家康は諸将それぞれへ「直政を先勢として遣わすので、家康が到着するまでは直政の指図に従うように」という書状を出しています。


この決定を受けて直政は家康の元を出発して清洲で諸将と合流し、直政と諸将の軍議によって岐阜城への攻撃を開始しました。

直政は徳川方の最前線として、刻々と変化する情勢に対応しながら、同行する諸将が徳川方から離反しないよううまくコントロールし、関ヶ原の決戦へと至ったのでした。

 

くわしくは、『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』第3部第2章をご覧下さい。ほかにも論拠となる史料を示して論じています。