彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政 はじめての大仕事

直政が実績を残した最初の大仕事は何でしょうか?

 

それは、天正10年(1582)8月から10月にかけて甲斐国で北条氏と戦い、旧武田領を手に入れた「天正壬午の乱」と断言できます。

この年の3月に武田氏は滅亡し、旧武田領は織田信長支配下となりますが、6月の本能寺の変によってそれは崩れたため、武田旧領には徳川・北条・上杉が進出し、争うことになりました。
徳川は、いち早く甲府に進出しましたが、まもなく北条が北信濃から甲州に入ってきて徳川と衝突します。このとき北条勢は2万とも4万とも言われる大軍を率いて若神子(わかみこ)城に本陣を置きましたが、それに対する徳川勢はわずか数千でした。それに加えて北条は小田原から1万の兵を送って徳川方の守る甲府盆地へ攻めかかりました。徳川方はわずか1500の兵ながら、北条方を破ります。この「黒駒の合戦」は劣勢ながらも北条に勝利し、武田旧領を手中に収めて5か国の大名への道が開けたもので、家康の生涯でも大事な一戦だったといえるでしょう。
兵力差がありながら徳川方が勝利できた要因は、軍事的な作戦も一つでしょうが、地元の武士や村を味方につけていたためではないかと言われています。

家康は、7月上旬に甲府に入ると、もともと武田配下にあった地元の武士たちに対して、徳川の配下に入るよう交渉をしていました。
そのとりまとめを担った中心の一人が直政でした。

武田旧臣で徳川配下に入った者は、最終的に800名以上となったようです(家康への臣従を誓った「天正壬午甲信諸士起請文」の人数による)。
そのそれぞれに対して、徳川の家臣が対面して、元から支配している領地や権限をそのまま認めるといった交渉を行い、臣従する合意を取り付けました。

この交渉は手分けして行われましたが、その主要な一つが直政とその配下のグループだったと考えられます。
最初に配下の者が交渉を進め、次に直政も対面して彼らが徳川に臣従する合意ができると、最終的に家康の面前に出て主従関係を取り結ぶ対面儀礼が行われました。この儀礼の場で直政は、彼らの意向を家康に伝え、両者の間をとりもつ役割を担いました。
また、これを受けて本領を認めるという家康の朱印状が出されましたが、ここには「井伊兵部少輔がこれをうけたまわる」という文言が明記されています。
つまり、直政は、武田旧臣が徳川方に帰属する交渉の責任者という仕事を与えられ、見事その結果を残したわけです。

この時直政は22歳。直前に呼び名を「兵部少輔」と改めていることからしても、名門井伊家のプリンスに「箔」をつけて、対外交渉役に抜擢したのが家康の策であったことがわかります。

これらは、「黒駒の合戦」やその後の北条氏との戦いの最中に行われていました。
直政は、軍事力ではなく、味方を増やす交渉という側面で尽力し、徳川の大勝利へ貢献したのでした。

くわしくは、『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』第1部第3章をご覧下さい。