彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』

史料に登場する井伊直政の足跡 第2回直政初陣の地「芝原」

「史料に登場する井伊直政の足跡」第2弾です。 今回は、直政初陣の「芝原合戦」の地を探します。 直政の初陣は、天正4年(1576)のことで、芝原合戦とされているのは『井伊直政 家康筆頭家臣の軌跡』でも触れた。 「井伊家伝記」や「井伊年譜」には、芝原…

史料に登場する井伊直政の足跡 第1回「大鳥居土佐屋敷」を探す

井伊直政の事績を調べ、いつどこにいたのかという行動ルートを史料から追っていったところ、すぐに判明したこともありますが、場所が特定しづらい場合もありました。場所がわかっても、なぜこの場所なのか? と考えが広がることもあります。そういった場合、…

「創り出した」偶然 その2

前回は、『黒田家文書』の史料集との偶然の出会いについて記しました。 偶然の出会いについて、もう一つ。 『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』では、井伊直政が差し出した、あるいは受け取った書状類を何点も写真掲載しました。その中に、ある偶然で見つけた…

「小山評定」は2度あった!

「小山評定」といえば、関ヶ原の合戦の直前、会津の上杉氏へ兵を向けていた徳川家康や豊臣恩顧の諸将らが小山(栃木県小山市)に進軍したところで、上方で石田三成が挙兵したことを聞き、引き返して石田方へ兵を向けることを決めた軍議として知られています。…

真田昌幸の助命~井伊直政の交渉術~

関ヶ原合戦で徳川家康をもっとも苦しめたといえるのが真田昌幸。戦後、家康は昌幸を生かしておくつもりはありませんでしたが、井伊直政の交渉術によって昌幸の命は助けられたと伝わります。 ここでは、その話を記す史料を紹介します。 この話は、真田家文書…

井伊直政が家康家臣となった際の逸話について(推論)

『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』を刊行したことで、いくつか取材を受けました。その中で聞かれたことで、著書の中に記していなかったことをここで記しておきます。 井伊直政が家康の鷹狩の際に偶然対面して家臣となったという逸話について。 直政が家康に…

井伊直政 はじめての大仕事

直政が実績を残した最初の大仕事は何でしょうか? それは、天正10年(1582)8月から10月にかけて甲斐国で北条氏と戦い、旧武田領を手に入れた「天正壬午の乱」と断言できます。 この年の3月に武田氏は滅亡し、旧武田領は織田信長の支配下となりますが、6月の…

井伊直政はなぜ徳川家康の筆頭家臣に昇り詰めたのか?

『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』のテーマは、 井伊直政はなぜ徳川家康の筆頭家臣に取り立てられたのか? という理由を探ることでした。 結論だけを言ってしまえば、 名門の出自+外交交渉能力 この2つが直政を家康筆頭家臣にしたと考えられます。 まず出…

井伊直政が松下家の養子となった理由

大河ドラマ「おんな城主 直虎」では、若き日の井伊直政が松下源太郎の養子となって松下家の跡継ぎとなっていたのに、井伊家を復興したい思いから家康へ井伊の名を名乗ることを願ったと描かれていました。 数少ない史料のすきまを埋めてドラマ化したのでこう…

「直虎」の時代の井伊谷を支えた人物は・・・

大河ドラマでは、「おんな城主直虎」が井伊谷を治めていたことになっていますが、実際の所はよくわかっていません。 少なくとも、成年男子の当主が不在だったことは確実です。このような場合、形式的な当主は置いても、実質的な政務は一族や重臣らによって執…

新しい井伊直政イメージ

『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』を読まれた方は、これまで知られてきた井伊直政のイメージとは違うという印象を持たれたのではないでしょうか。それは、一言で言えば元にした史料の違いです。 従来の直政イメージは、江戸時代より流布してきた「歴史書」…

『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』発行日によせて

本日10月10日は、『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』の発行日です(実際はすでにできあがって販売開始されていますが)。 大河ドラマ「おんな城主 直虎」では、9月後半から直政の成長が話の主軸となってきています。ちょうどよいタイミングで出せました。 第…