彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政家臣列伝 その8 近藤秀用 ~「井伊谷三人衆」から井伊谷の領主へ~ 

近藤康用(1517生~1588没) 近藤氏は三河国宇利を本拠としていた。「寛政重修諸家譜」には康用の祖父である満用から記載されており、その墓所は宇利村にあったことから、その段階で宇利に拠点を置いていたことがわかる。 宇利の周辺には「井伊谷三人衆」と…

井伊直政家臣列伝 その7 鈴木重好(後編) ~「井伊谷三人衆」から直政筆頭家臣へ~ 

直政家臣の筆頭 鈴木重好は、井伊直政家臣団の中で筆頭に位置する重臣であった。 井伊隊の軍事構成は、2つの先備え隊と旗本隊を基本としたが、関ヶ原合戦の際には重好と木俣守勝が先備え隊の隊長を務めている。合戦後、重好が土佐浦戸城の受け取りに出向い…

井伊直政家臣列伝 その6 鈴木重好(前編) ~「井伊谷三人衆」から直政筆頭家臣へ~ 

鈴木平左衛門尉重勝 「井伊谷三人衆」の一人、鈴木重時は、父重勝の時代から三河国山家吉田に居住し、足助の鈴木氏と同族という。重勝は天文元年(1532)に青龍山満光寺(新城市下吉田)を造立しており、隣接する柿本城もその頃までに重勝により整備されたと…

井伊直政家臣列伝 その5 菅沼忠久 ~「井伊谷三人衆」の家~ 

菅沼一族 菅沼氏は戦国時代、三河国東部の設楽郡に本拠を置いた一族で、嶋田、長篠、田峯、野田などを領する家に分立していた。 長らく駿河の今川氏の配下にあり、本拠から国境を越えて遠江へも勢力を伸ばしている。永正年間(1504~1521)、駿河の戦国大名…

井伊直政家臣列伝 その4 松井四兄弟 ~二俣城主の一族~

松井氏は「井伊谷七人衆」の一角を占めるが、他の六氏ほど有名ではない。 直政の初期からの家臣に松居清易ら四兄弟がいる。その由緒によると、祖父は二俣城主の松井宗信、父は宗継という。 宗信は桶狭間の戦いで討ち死にした今川方の国衆として存在が確認で…

井伊直政家臣列伝 その3 中野直之・中野三信 ~井伊氏の一門~

中野氏は井伊氏の一族で、井伊谷の中にある中野という地が本貫地という。井伊家の系図類では、井伊直平(直政の曾祖父)の父直氏の弟である直房を中野氏の祖とする。井伊氏や重臣と婚姻関係を重ねており、井伊氏の一門として重要な役割を果たした家である。 …

井伊直政家臣列伝 その2 小野源蔵 ~井伊氏奉行の家~ 

小野氏の家系 小野氏は大河ドラマ「おんな城主直虎」の影響で一挙にメジャーになった。しかしドラマの「元ネタ」といえる「井伊家伝記」は小野氏(和泉守・但馬守)を敵役に位置づけて描いていると思われる。まずはその理由も含めて、戦国期の小野氏のあり方…

井伊直政家臣列伝 その1 松下清景 ~直政の養父~ 

松下一族 松下氏は遠江頭陀寺(浜松市南区)を拠点とする一族で、今川義元・氏真に仕え、その後徳川家康に出仕したという由緒をもつ。頭陀寺の近くには引馬城(のちの浜松城)があり、今川時代の松下氏は引馬城主飯尾氏の軍事配下に属す与力の関係(いわゆる…

井伊直政家臣列伝 プロローグ 井伊谷七人衆

新シリーズとして「井伊直政家臣列伝」の連載を開始します。 『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』では、直政家臣のことも多く触れています。中には、史料を調べる中で新しくわかってきたこともあります。ただ、この本は直政が主役なので、家臣についてはわか…

朝鮮通信使と鳥居本宿

先日、中山道の鳥居本宿(彦根市鳥居本町)で開催された「とりいもと宿場まつり」の催しの1つとして、「朝鮮通信使と鳥居本宿」というテーマで講演をしてきました。そこでは、通信使の通行と鳥居本宿との関わりについて紹介しました。もちろん、先日刊行した…

朝鮮人街道の謎に迫る その6 名称

今回は「朝鮮人街道」という街道の名称について。 現在は一般的にこの名称が使われているが、江戸時代の史料を見る限り、これが公式な名前ではなかったことがわかる。江戸時代にはいくつも呼び名があり、むしろ「朝鮮人街道」という名を探す方が難しいほどで…

朝鮮人街道の謎に迫る その5 通行者の謎

朝鮮人街道についての解説の中で、「一般人の通行が禁じられていた」「将軍以外では唯一朝鮮通信使の通行が認められていた」というものを見たことがある。この表現は正確なのだろうか?検証してみたい。 まず前提として、参勤交代や幕府役人など幕府公用での…

朝鮮人街道の謎に迫る その4 幕府の街道政策の中で

今回は、朝鮮人街道が江戸幕府の街道政策においてどのような位置づけであったのかを考えたい。 まず前提として、幕府の管轄していた街道の区分を確認しておくと、 Ⅰ 道中奉行の管轄していた五街道およびその附属街道 Ⅱ 勘定奉行が地元領主を通じて取り扱った…

朝鮮人街道の謎に迫る その3 整備の経緯 

前回、朝鮮人街道は下街道(巡礼街道、信長の整備した佐和山城から安土城へ向かう街道)をもとに、江戸時代初期に整備されたことを示した。 今回は、江戸時代初期に整備された経緯を考える。 これを考えはじめたきっかけは、慶長12年(1607)の第1回通信使…

朝鮮人街道の謎に迫る その2 巡礼街道から朝鮮人街道へ

前回、 朝鮮人街道およびその前身街道は、整備された段階として次の3つに区分できることを示した。 中世段階(信長による整備以前) 織田信長による整備 江戸時代初期の整備 1は、彦根山に築城する以前、霊場として寺院が建ち並んでいた時期に、参詣者が彦…

朝鮮人街道の謎に迫る その1

近江(滋賀県)には、通信使一行が通ったことでその名前がつけられた街道が残っている。野洲市から彦根市にかけて、中山道から分岐してその西側の琵琶湖岸との間を通る「朝鮮人街道」と呼ばれる街道である。他の通信使ゆかりの地には見られず、近江独自のも…

『朝鮮通信使と彦根』を刊行しました

このたび、サンライズ出版から、別冊淡海文庫として『朝鮮通信使と彦根 記録に残る井伊家のおもてなし』を刊行しました。 是非ともお手にとってご覧ください。 購入方法、内容紹介はこちらからwww.sunrise-pub.co.jp まずは、執筆の視点を紹介します。 朝鮮…

井伊直政の菩提所 その6 護国殿

江戸時代後期になると、新たに井伊直政らを祀る施設が彦根に建てられた。彦根藩によって清凉寺の境内に建てられた護国殿である。文化8年(1811)に完成した。 ここで祀っているのは直政だけではない。中央に徳川家康の神牌が祀られ、その左に直政、右に直孝…

井伊直政の菩提所 その5 井伊谷・龍潭寺

井伊氏の出身地にある井伊谷(静岡県浜松市北区)にある龍潭寺は、戦国時代の井伊氏によって建てられた菩提寺である。龍潭寺という名は、桶狭間で討ち死にした当主井伊直盛の院号に由来する。 井伊谷龍潭寺 境内の一角に、「井伊氏歴代墓所」が築かれており…

井伊直政の菩提所 その4 彦根・清凉寺

直政の菩提寺として彦根藩によって建てられたのが清凉寺。 城が彦根に移された後、城下町やその周辺を整備した中で、城の北東方向、佐和山の麓に藩祖直政の菩提寺として築いた。寺院の名称は、直政の法号である祥寿院殿清凉泰安居士による。 清凉寺の開山は…

井伊直政の菩提所 その3 京都・六波羅蜜寺

六波羅蜜寺といえば、京都・東山にあり、空也上人や平清盛の像といった鎌倉時代を代表する有名な彫刻があることでも知られている。通常、これらは同寺内にある宝物館で拝観することができる。実は、宝物館では清盛像に並んで、井伊直政の彫像が置かれている…

井伊直政の菩提所 その2 高野山奥の院

高野山の奥の院、一の橋から弘法大師の御廟までの参道の両側には、戦国武将や大名の墓が多く建てられていることはよく知られている。 その中に井伊直政のものもある。御廟に向かう奥の院参道の左側、参道から少し奥に入ったところに、井伊家の墓所が2か所あ…

井伊直政の菩提所 その1 長松院

戦国武将や江戸時代の大名は、菩提寺のほかにも、ゆかりの地に廟所・供養塔が造られたり、位牌が置かれて供養されていることがあります。井伊直政の場合も墓所のある清凉寺のほかにゆかりの菩提所がいくつかありますので、それぞれを紹介していきます。 まず…

史料に登場する井伊直政の足跡 第8回藤森の警固

実際に交戦のあった戦いでは、それぞれの部隊がどのような規模でどのような動きをしたのかといったことはよく紹介されているが、実戦にはいたらなくとも、軍事部隊が出動する機会は多くあった。規模の大小はあれ、日常的にも城の入り口や領地の境界、交通の…

彦根城見学に向けての事前学習

昨日は、岐阜県のある小学校に行ってきました。今度、6年生が校外学習で彦根城へ見学に行くにあたり、事前に学習しておきたいということで、その講師として招かれました。 メインの話は、彦根城は、いつ、誰によって、なぜこの場所に建てられたのか、といっ…

史料に登場する井伊直政の足跡 第7回岐阜城攻め

”天下分け目”の関ヶ原合戦(慶長5年9月15日の関ヶ原での戦いだけでなく、同年7月の石田三成挙兵から講和成立まで)の中で、東軍(徳川勢と親徳川の豊臣諸将)が岐阜城を1日で落城させたことが、その後の戦況に大きく影響したことはよく知られている。 今回…

史料に登場する井伊直政の足跡 第6回長久手古戦場

前回より時代は遡りますが、天正12年(1584)、直政が侍大将となって初めての大きな戦い、長久手合戦での井伊隊の動きを探ります。 小牧・長久手の戦いで、井伊直政は徳川家康の旗本隊の先鋒として布陣していた。家康は小牧山城に入っていたが、秀吉方の別働…

史料に登場する井伊直政の足跡 第5回小田原の陣唯一の戦闘地「篠曲輪」

前回から随分時間が経ってしまいましたが、引き続き、小田原の陣での井伊隊の動向について。 天正18年(1590)の小田原の陣。 豊臣政権によって動員された諸大名は小田原城を囲んだが、徳川勢は城の東、山王川と酒匂川の間に陣を敷いた。家康の陣は海岸から…

史料に登場する井伊直政の足跡 第4回小田原への道「箱根から宮城野」

天正18年(1590)、豊臣政権は臣従した諸大名に小田原への出陣を命じ、強大な軍事力で小田原城を取り囲んで北条氏を滅ぼした。 このとき、徳川家康にも出陣が命じられ、井伊直政も部隊を率いて出陣した。徳川勢は駿府から東海道を東に向かい、長久保城(静岡県…

史料に登場する井伊直政の足跡 第3回井伊隊はじめての出陣「高遠口」

久しぶりの更新となります。「史料に登場する井伊直政の足跡」第3弾です。 今回は、井伊隊がはじめて家康から出陣を命じられた「高遠口」の地を探します。 天正11年(1583)正月12日付で、徳川家康から井伊直政へ宛てた直筆書状が残っている。そこには「急ぎ…