彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政家臣列伝 その7 鈴木重好(後編) ~「井伊谷三人衆」から直政筆頭家臣へ~ 

直政家臣の筆頭

 鈴木重好は、井伊直政家臣団の中で筆頭に位置する重臣であった。
 井伊隊の軍事構成は、2つの先備え隊と旗本隊を基本としたが、関ヶ原合戦の際には重好と木俣守勝が先備え隊の隊長を務めている。合戦後、重好が土佐浦戸城の受け取りに出向いたのも、そのような立場に基づいて派遣されたのであった。慶長7年(1602)の分限帳では、5500石という家臣団の中で最高の知行を得ている。
 また、彦根城の築城工事の最中、視察にやってきた大久保長安へ応対したのも鈴木と木俣であり、幕府への応対や政務の上でも家臣の筆頭であった。
 
 そのように取り立てられた理由は、「井伊谷三人衆」として井伊家と古くから関わりが深く、また、軍事的能力があってのことであろうが、そのほかにも重要な要因があったと思われる。
 それは、重好は直政と従兄弟という関係にあったという点である。直政の母と重好の母は姉妹(奥山親朝の娘)であった。もちろん、中野三信・小野朝之など、ほかにも直政の従兄弟は配下にいた。そこで、今川配下時代の関係をみると、中野・小野らは井伊家の配下にあったのに対し、鈴木は今川直臣であり、独立した城主の立場で与力として井伊家とともに軍事行動をともにしていた。つまり、もともと対等な格の家柄であった親族のため、鈴木は井伊家の中で一門衆の扱いを受け、先手隊の隊長に取り立てられたと考えられる。
 
 鈴木が直政の親族という立場でその家中にあったのは、重好の男子を直政の養子にしたことからも言える。重好四男の直重は、慶長12年(1607)までには井伊采女と称していた。井伊の苗字を名乗っており、直政の養子として家康にも対面したという。しかし、慶長14年に死去しており、どのように遇しようとしていたのかは不明である。
 

家中騒動と鈴木重好の井伊家からの退去

 重好が井伊家の中核にあったのは、当主直政のもとでさまざまな出自をもつ家臣に対する統率が行き渡っていたからであった。直政が亡くなるとすぐに井伊家の統制はとれなくなり、家中騒動が起こった。

 家中騒動は、直政没後の重好の行動に対し、他の重臣が不満を持つという関係で生じた。慶長10年(1605)6月、河手主水、椋原対馬、中野介大夫、西郷勘兵衛、松下源太郎は連名で、本多正純ら家康の側近に宛てて重好の行状を非難する訴状を提出した。そこには、金銀の不正流用、年貢未進の不正処分、役儀や賞罰・知行宛行の不正などが記されている。
 その結果、家康周辺からの内済により、重好を隠居させて井伊家から放し、嫡子の重辰に5500石の知行と重臣としての立場を継承させることで落着となった。それでも根本的な解決とはならなかったようで、最終的には重辰も彦根を離れることとなる(後述)。
 
 さて、重好自身は隠居してしばらくは重辰の知行地に居住していたが、慶長19年の大坂冬の陣に際して本多正信に属して戦い、続く夏の陣では正信隊から離れて戦功を挙げた。その後一時期、松平忠輝を後見するようにと付けられたが、元和2年(1616)に忠輝が改易となったので、重好も一旦重辰のもとに戻った。
 元和4年になり、将軍秀忠の命によって水戸徳川頼房への付家老となった。水戸の家中には実戦経験が豊かな家臣がおらず、軍事経験豊富な重好をその家中に付けたということである。5000石の知行を拝領し、寛永10年(1633)に隠居した。その家督は、孫(重辰の男子)の重政が養子となり継承した。

 その後も鈴木家は代々、水戸藩の家老を務め、幕末に至った。幕末水戸藩の藩内抗争では、穏健派の「諸生党」の中核におり、慶応4年(1868)、戊辰戦争が始まると対立した天狗党の残党により八代重矩・九代重棟らは捕らえられ、重矩は獄中病死、重棟とその息子らは斬罪となった。
 

井伊家家臣の立場の継承と断絶

 慶長10年、重好が家中騒動の収束のために井伊家から離れることになったが、重辰はその立場や知行高はそのまま継承した。つまり、幕府へ鈴木の不正を訴えたにも関わらず、鈴木へ処罰は下されず、鈴木を筆頭家臣として井伊家を支える状況に変化はなかったのであった。
 その後も井伊家の重臣層は安定しなかったようである。その要因の一つに、当主井伊直継が若年であり家中を統率しきれなかった点があった。ただ、直継の成人後もその状況は変わらず、最終的に井伊家を二つに分けることで決着がはかられた。
 大坂冬の陣では、直政二男の直孝を大将として井伊家の部隊は出陣し、陣後、直孝は彦根15万石、直継は上野安中3万石を領することとなった。重辰も、冬の陣では先手備えの大将として出陣したが、直継に従って安中に移る。3000石を拝領してここでも筆頭家臣の立場にあり、夏の陣では横川関所の警備を担った。
 ところが、寛永11年(10年という説もあり)に重辰が死去すると、その息子は幼少につき、惣領重信へ1500石(1000石とも)、二男へ500石、三男へ300石を相続するよう命じられた。それに対し、彼らの祖父である重好はそれに納得せず、寛永12年、重信ら三兄弟を井伊家の扶持から離して、直臣にしたいと幕府に願った。しかしそれが実現するまでに重好が死去してしまい、重信は牢人となり、二男と三男は帰農した。

 これにより、鈴木家の嫡流で井伊家に仕える者はいなくなった。ただ、分家では井伊家に仕えている者がいる。鈴木石見守(重好)の甥という鈴木甚大夫重長を初代とする家で、300石~500石取で足軽大将などを務めた中級藩士の家である。
 

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 参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
藤井達也「水戸藩家老の家に伝わった中世文書―『水戸鈴木家文書』の紹介―」(『常総中世史研究』3号、2015年)
 
典拠史料
「井伊年譜」
「井伊家譜」(東京大学法制史資料室蔵)
『新修彦根市史』2巻・6巻
彦根藩史料叢書 侍中由緒帳』4(彦根市教育委員会、1997年)

  

 

 

 

井伊直政家臣列伝 その6 鈴木重好(前編) ~「井伊谷三人衆」から直政筆頭家臣へ~ 

鈴木平左衛門尉重勝

 「井伊谷三人衆」の一人、鈴木重時は、父重勝の時代から三河国山家吉田に居住し、足助の鈴木氏と同族という。重勝は天文元年(1532)に青龍山満光寺(新城市下吉田)を造立しており、隣接する柿本城もその頃までに重勝により整備されたと考えられる。

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 重勝は、今川義元三河へ進出してきた際に臣従している。義元は天文15年(1546)冬から三河平定に向けて動き出していたが、天文22年、今川一族の関口氏純からの働きかけによって重勝が被官となったことを示す義元朱印状が現存している。
 その後、永禄3年(1560)の桶狭間の戦い後に徳川家康が今川から離反したのに伴って東三河の者が今川から離れようとした際に、重勝は今川方として行動している。永禄4年9月には、宇利城にいる近藤康用を味方につけて井伊谷へ申し合わせて軍事行動をしたとして、今川氏真から本領安堵と宇利に200貫文の地を所務するようにという判物が下されている。これにより、鈴木氏は今川配下で井伊谷の「井伊衆」という軍事組織に組み込まれて軍事行動をとっていたことと、近藤氏を味方につける(=徳川方へ離反させない)ために重勝が尽力したことがわかる。
 
 このように、鈴木氏は「井伊衆」のなかで三河衆の中核的立場にあったことが窺えるが、婚姻関係からもそのことが推測できる。重勝の息子の重時の妻は奥山朝親の娘であり、井伊直親(直政の父)や中野直之小野朝直とは妻が姉妹同士という関係で結ばれていた。

鈴木三郎大夫重時

 重勝は永禄年間に隠居して重時が当主となる。永禄7年に重時に宛てた今川氏真からの感状が出されているので、その時までに家督を相続していたと思われる。永禄10年までは重時と近藤康用は今川方として対徳川の最前線で戦っていたが、永禄11年12月、家康が遠江に侵攻しようとして菅沼定盈から菅沼忠久へ調略を働きかけたのに両名も同調し、徳川方について家康の遠江進出を手引きした。しかし、重時は翌年の堀江城での戦いで討死した。
 
 重時が討死したとき、嫡子の重好はまだ12歳だったので、重時の弟である重俊が鈴木の兵を率いて出陣した。元亀元年(1570)の姉川合戦の後、翌年に武田氏が遠州犬居・奥山へ兵を向けた際にも近藤らとともに防戦のため出陣したが、その際に重俊は討死した。

鈴木石見守重好

 重好は、元亀3年の三方が原の合戦から出陣し、天正3年(1575)の長篠合戦にも出陣した。これらは近藤・菅沼との「井伊谷三人衆」で一隊を構成していたと思われる。その後、天正12年3月の小牧・長久手合戦の際、鳴海まで出陣した三人衆は、まとめて直政の備えに属すよう家康より命じられ、これ以降、軍事上は井伊隊の配下に入った。
 その後も三人衆は井伊隊に属して出陣している。天正18年の小田原の陣では、鈴木隊は小田原城を囲んでいた井伊隊の別働隊として行動し、武蔵方面に向かった。浅野長政本多忠勝の部隊に同行して岩槻城攻めに加わり、重好は手傷を負っている。
 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、重好は井伊隊の先手として布陣した。合戦では他の部隊に先んじて一番に馬を入れ、井伊隊で討ち取った首級150のうち53は鈴木隊で討ち取ったものであったという。

 重好の戦功として知られているのが、土佐浦戸城の接収である。合戦後、敵方についた長宗我部盛親の領地を没収することになり、直政は重好を土佐へ派遣した。しかし長宗我部の家臣が浦戸城に立てこもって抵抗し、接収は難航した。そのことを直政に報告すると、重好を叱責する返書が2通送られてきた。12月1日付書状では、あえて入魂な仲である井伊家が赴いたのに抵抗された不手際を叱責し、成果が得られなければ帰ってくるか、そうでなければ家康から軍勢を派遣して悉く討ち果たすのでお前たちもそこで討死するように、と強い口調で指示している。このことは脅しではなかったようで、12月5日の書状では、四国の大名に対し土佐への出陣命令が下りたことを伝えている。同日、浦戸では城の接収に成功し、重好もミッションを成功させた。
 
 慶長7年の分限帳をみると、重好は5500石となっており、直政家臣団のなかで筆頭の石高であったことがわかる。
 
~鈴木家(後編)につづく~
 後編では、なぜ鈴木氏は井伊家の筆頭家臣となったのか、また、その後の鈴木家のゆくえについて述べます。
 
 
参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
藤井達也「水戸藩家老の家に伝わった中世文書―『水戸鈴木家文書』の紹介―」(『常総中世史研究』3号、2015年)
 
典拠史料
『新修彦根市史』6巻 
  

 

 

 

井伊直政家臣列伝 その5 菅沼忠久 ~「井伊谷三人衆」の家~ 

菅沼一族

 菅沼氏は戦国時代、三河国東部の設楽郡に本拠を置いた一族で、嶋田、長篠、田峯、野田などを領する家に分立していた。
 長らく駿河の今川氏の配下にあり、本拠から国境を越えて遠江へも勢力を伸ばしている。永正年間(1504~1521)、駿河戦国大名今川氏親遠江への侵攻をはかって遠江守護の斯波氏と対立し、西遠江各地で戦闘が繰り広げられていた際には、引間城の大河内氏や三岳城の井伊次郎が斯波方として戦う中、野田菅沼の定則が今川方として戦功をあげ、遠江国河合・高部郷を恩賞として与えられている。
 井伊谷とは国境を挟むが距離的には近く、古くから井伊谷周辺の勢力とも関わりを持っていた。
 
 定則の孫である新八郎定盈も当初は今川に属していたが、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いの後、徳川家康が今川から離反すると、定盈はいち早く家康に味方する。永禄11年、家康が遠江へ侵攻しようとした際、定盈は井伊氏のもとにいた次郎右衛門忠久(長篠菅沼の一族)らへ徳川方へ味方するよう働きかけ、定盈を通じて忠久と近藤康用鈴木重時の「井伊谷三人衆」が家康に臣従して井伊谷筋を案内し、家康は遠江に入ることができた。
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菅沼忠久とその家系

 「井伊谷三人衆」の菅沼忠久は、『寛政重修諸家譜』によると、父元景の代から井伊直親に仕えたという。また、「都田 菅沼次郎右衛門忠久」とも見え、井伊谷周辺の都田に居住していたと思われる。忠久やその父は一族からみれば庶流であり、長篠を離れて井伊氏の配下にあったのである。
 
  家康は遠江を領すると、次に武田氏との戦いが続いた。「三人衆」の本拠地である奥三河は武田が南下してくるルートにあたり、家康は彼らを最前線で武田の侵攻から守るためそこに配備した。その後、天正10年(1582)末に井伊直政は家康から侍大将に取り立てられ、天正12年の小牧・長久手の合戦にその部隊がはじめて出陣することになった。この出陣に際して、「三人衆」は井伊隊に属することとなった。ただし、忠久の履歴には長久手合戦への出陣はなく、死去した年代は天正10年と文禄4年の二説ある。
 忠久またはその跡を継いだ忠道が直政に仕えたが、忠道には跡継ぎがないまま死去したため断絶する。『寛政重修諸家譜』には忠道の子の次郎右衛門勝利が幼少につき井伊家に仕えず江戸へ行き、のちに将軍秀忠に仕えたという。一方、「侍中由緒帳」(菅沼次郎右衛門家)では、次郎右衛門の女子二人のうち旗本永見新右衛門へ嫁して生まれた男子を旗本に取り立て、母方の菅沼姓を称したという。一方「御侍中名寄先祖付帳」では、この人物を次郎右衛門の落とし子という。いずれにしても、忠久の子孫は旗本の家だけが継承されていたが、天保15年(1844)、彦根藩士として次郎右衛門の家が再興された。忠久の娘の一人が彦根藩重臣の長野十郎左衛門家へ嫁していたため、長野氏の次男に10人扶持を与えて菅沼次郎右衛門の名跡を継承させている。
 江戸時代後期になり由緒を重んじる意識が高まっており、彦根藩では井伊氏先祖に関わりの深い家をいくつか再興させているが、菅沼家もその一つと考えられる。
 <家系>
  初代  忠久
  2代目 忠道 無嗣断絶
  (旗本の家) 勝利 忠久の孫または落とし子、旗本の家として継承
     再興  次郎右衛門 天保15年に彦根藩士の家を再興

忠久の弟の家系

 一方、忠久の弟の子である定重は、17歳で召し出されて、直政の小姓として仕えている。ただし、関ヶ原合戦後、200石取となったが井伊家を離れて伊勢長島城主菅沼定芳(菅沼定盈の家系)の家臣となった。井伊家を離れたのは、関ヶ原合戦後の恩賞に満足しなかったからともいう。定芳のもとで当初は客分として300石、のち400石下され大坂の陣に出陣した。ところが、定芳の家督を継いだ定昭が無嗣断絶となったため、定重の跡を継いだ定朝は牢人となった。そのため、彦根藩に願い出て、寛文2年(1662)、井伊直澄より200石取で召し出された。以来、安永10年(1781)に6代目が改易されるまで、代々井伊家に仕えた。
 <歴代>
   初代父 新右衛門 忠久の弟、病弱につき奉公せず
   初代  新三定重(『寛政重修諸家譜』では作左衛門重吉としている) 直政小姓、関ヶ原合戦後、菅沼織部正に付く
   2代目 作左衛門定朝  菅沼織部家断絶後、寛文2年に彦根藩へ召出 

菅沼淡路守家

 菅沼姓をもつ直政家臣として菅沼淡路守がいる。慶長7年(1602)には菅沼藤太郎、同12年には菅沼淡路が1000石拝領しており、同一人物と考えられる。淡路は元和元年(1615)に井伊直継に付いて安中藩士となった。ただし、掛川分限帳には菅沼氏の名は見られなくなっており、掛川在城時(1659~1706)までに井伊家を離れた(または断絶)と思われる。菅沼淡路守(初代)は奥山親朝の娘と縁組みしている1人として奥山氏の系図に記されている。親朝の娘の1人に井伊直政の母がおり、直政と姻戚関係があったことになる。淡路守は『寛政重修諸家譜』などで確認できず菅沼一族の中での位置関係は不明であるが、「淡路守」という国司の官名を称しており、少なくとも「次郎右衛門」を称していた忠久より格上の人物であったと思われる。
 直政家臣となった菅沼一族の中でもっとも知行が高く厚遇されたのは、親戚関係や元々の家格によるといえよう。
  <歴代>
   初代  淡路守:妻は奥山親朝娘
   2代目 藤太郎、のち淡路と改称 井伊直継に付き安中藩
 
 そのほか、菅沼郷左衛門三房も井伊谷出身という出自を持ち、忠久と近い同族と思われる。天正12年の長久手の陣より直政に御供している。直政の代には200石取であった。彦根藩士の家としてはこの家だけが幕末まで途切れず続いている。
 
参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
 
 典拠史料
寛政重修諸家譜
『譜牒余録』
「侍中由緒帳」、「貞享異譜」、「御侍中名寄先祖付帳」(いずれも彦根城博物館所蔵、未刊)
『新修彦根市史』6巻(彦根市、2002年)

 

井伊直政家臣列伝 その4 松井四兄弟 ~二俣城主の一族~

 松井氏は「井伊谷七人衆」の一角を占めるが、他の六氏ほど有名ではない。
 
 直政の初期からの家臣に松居清易ら四兄弟がいる。その由緒によると、祖父は二俣城主の松井宗信、父は宗継という。
 宗信は桶狭間の戦いで討ち死にした今川方の国衆として存在が確認できる。桶狭間の敗戦後、今川の勢力が弱まると、二俣城は徳川と武田の勢力争いの舞台となり、松井一族は分裂して双方の配下に入ったことが知られている。一方、父とされる宗継は諸史料には登場しない。

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松井氏の居城 二俣城

 「侍中由緒帳」には、清易らは井伊谷で生まれたとされており、彼らの父は井伊谷に居住していたと考えられる。清易らの父がほんとうに宗信の息子であったかは確かめようがないが、松井一族の一員として井伊氏配下にあり井伊谷に居住していたのではないだろうか。あるいは、松井氏の証人(人質)として井伊谷に送られていたかもしれない。いずれにせよ、松井氏が「井伊谷七人衆」にかぞえられるのは、清易らの父が井伊氏の配下にあり発言力を有していたためと考えられる。
 
  「貞享異譜」によると、四兄弟が直政に出仕したのは天正5年(1577)のことで、長兄清易は天正7年の天龍川の陣で一番槍の高名をあげたという。直政が家康のもとに出仕したのが天正3年のことであり、翌4年が直政の初陣と伝わるため、松井兄弟は直政の初陣後、まだ家臣が少なかった頃にその配下に入ったといえる。その後、直政隊の出陣にいずれも御供したといい、清易は直政の箕輪城主時代(1590~1598)に足軽大将となっている。また、関ヶ原合戦図屏風(井伊家伝来本、彦根城物館蔵)にも、「松居武太夫」の名を記した旗指物を指す武者が描かれている(第2扇中央より下、「木俣右京」の下部)。このように、松井兄弟は軍事面で活躍したと思われる。
 

 *関ヶ原合戦図はこちらからごらんください

関ヶ原合戦図(井伊家伝来資料) | 彦根城博物館|Hikone Castle Museum|滋賀県彦根市金亀町にある博物館

 
 四兄弟のうち、武太夫清易、善兵衛清高、惣十郎清虎の三名は、それぞれ子孫が彦根藩士として家が継承されている。清易の系統は家督を継承した武太夫家と、孫の代に分家した善兵衛家、清高の系統は家督を継承した善三郎家と三男の金右衛門家、清虎の系統や嫡男は跡継ぎがなく断絶したが次男七左衛門の家系は継承されている。
 
 慶長7年(1602)の家中分限帳によると、
  松居武太夫 720石
  松居善兵衛 300石
  松居惣十郎 180石
 とある。
 なお、彦根藩士家では藩主井伊家を憚って苗字に「井」の文字を使用しない通例となっているが、松井氏も同様であった。
 
 
 
参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
 
 典拠史料
彦根藩史料叢書 侍中由緒帳』10~12(彦根城博物館、2009年~11年)
「貞享異譜」(彦根城博物館所蔵)
『新修彦根市史』6巻(彦根市、2002年)

 

 

井伊直政家臣列伝 その3 中野直之・中野三信 ~井伊氏の一門~


 中野氏は井伊氏の一族で、井伊谷の中にある中野という地が本貫地という。井伊家の系図類では、井伊直平(直政の曾祖父)の父直氏の弟である直房を中野氏の祖とする。井伊氏や重臣と婚姻関係を重ねており、井伊氏の一門として重要な役割を果たした家である。

  (中野氏の家系
  直房(井伊直氏の弟)― 直村
 ― 直由 ― 直之 ― 三信
 
 「井伊家伝記」によると、永禄5年(1562)に井伊直親が討たれた後、中野信濃守直由が井伊谷の「仕置」を預かり、新野左馬助が幼少の直政を養育したが、永禄7年9月、今川氏の命令で中野・新野が井伊の兵を率いて引馬城の飯尾氏に向けて出兵した際、引馬近くの天間橋で討たれたという。このような直由は、直親亡き後の井伊氏において政務を任され、かつ軍勢を率いる立場にあり、一門として当主の役割を代行した人物と描かれている。「井伊家伝記」では直由だけが井伊谷の政務を任されたように描かれるが、実際には直由だけというよりも、数名の内の一人が直由と考えた方がいいだろう。
 直之(又右衛門のち越後守)の由緒には、「直政様世に御出なされ候て又右衛門方へ有り付き申し候よし」(「木俣清左衛門家文書」)とある。この短文だけでは判断しがたいが、家康へ出仕した後の直政が直之の宅に居住していたということであろうか。少なくとも、直政の出仕当初からその傍らに直之がいたことは間違いないだろう。
 
 直之と直政は比較的近い親戚関係にあった。直之の妻は奥山因幡守親朝の娘であり、直政の母の妹にあたる。その子、つまり直政の従兄弟にあたる人物は7人いる。中野家を継いだ三信のほか、その弟に松下清景の養子となった松下一定、広瀬将明の養子となった広瀬将房がおり、女性は奥山六左衛門、小野源蔵、松居作兵衛、渡辺助之進といった井伊氏一門や重臣へ嫁している。このように、直政の従兄弟でもある直之の子どもたちは、直政の重臣となった者と縁組することで、直政と重臣との結束をはかる役割も担った。
 三信やその弟(のちの松下一定)は直政よりも年下で、幼少の頃から直政のもとに仕えていた。合戦への従軍は、両名とも天正18年(1590)の小田原陣からという由緒をもつ。
 

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井伊谷龍潭寺にある中野氏の墓
 慶長7年(1602)の分限帳では、中野越後が1850石、助太夫が1500石となっている。『新修彦根市史』では越後を三信、助太夫をその息子の三宣と比定しているが、「侍中由緒帳」によると三宣は16歳で1614年の大坂冬の陣に出陣しているので、1世代さかのぼり、越後は直之、助太夫は三信と考えられる。
 
 その後の歴代も彦根藩の家老などを務めている。また、井伊家一族という独自の立場は江戸時代に入っても認識されており、藩主井伊家の子息で臣下に下った者が何人も中野氏の養子となっている。まず三代井伊直澄は兄の子直興を養子とすることが決まっており、直澄の息子の1人は中野寧三(中野家四代)の甥分として中野姓を称した。そのほか、
  • 井伊直定4男の卯之次郎
  • 井伊直幸11男の外也 (のち与板藩主井伊直朗の養子となる)
  • 井伊直中6男の恭之介
にも中野の苗字を下されている。
 
 
参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
 
 典拠史料
彦根藩史料叢書 侍中由緒帳』2(彦根市教育委員会、1995年)
『新修彦根市史』6巻(彦根市、2002年)

 

井伊直政家臣列伝 その2 小野源蔵 ~井伊氏奉行の家~ 

小野氏の家系

 小野氏は大河ドラマ「おんな城主直虎」の影響で一挙にメジャーになった。しかしドラマの「元ネタ」といえる「井伊家伝記」は小野氏(和泉守・但馬守)を敵役に位置づけて描いていると思われる。まずはその理由も含めて、戦国期の小野氏のあり方を一次史料に基づいて見ていきたい。
 
 小野氏は戦国時代の井伊氏「家老」の家柄とされる。家老とは江戸時代の武家でみられる表現であり、戦国時代のあり方からいえば、家政をつかさどる側近という立場にあった「奉行」と呼ぶのがふさわしい。戦国時代の主従関係では、普段は所領に居住しており戦となると戦陣に馳せ参じる者と、主君のそばに日常的に勤めてその政務にたずさわる者がいた。小野は後者といえる。
 それは、連歌師宗牧の紀行文『東国紀行』から明らかとなる。天文13年(1544)、旅の途中、井伊氏の所領を通過した宗牧は、城主「井伊次郎殿」の城ではなく和泉守の屋敷に一泊したという。先を急ぐため城山に登らず和泉守の所に宿泊し、翌日は都田方面へ向かったとあることから、和泉守は井伊谷城のふもとに屋敷を構えていたことがわかる。
 和泉守の跡を継いで井伊氏の奉行を務めたのは但馬守である。有名な井伊谷徳政の書状に「小但」という呼称で登場し、今川方は徳政を実施させるため彼を通じて当主次郎の承認を得ようとしている。但馬守は井伊氏を代表して上級権力である今川氏とやりとりする取次を勤めていたといえる。
 このように、小野氏は井伊氏の政務運営上不可欠な人物であった。
 
 一方、「井伊家伝記」では小野和泉守や但馬守と井伊直満・直親父子が不和で、小野の讒言により父子が討たれたと記す。
  • 和泉守は直親が当主直盛の跡継ぎとなることを良しとせず、直満が武田に対する戦の準備をしていたのを勝手に軍事準備していると今川に讒言したため、直満とその弟の直義は今川により討たれた。
  • 直盛没後、小野但馬守は井伊谷を押領しようと陰謀を企んでいた。そのため、直親が家康と行き来していたのを知った但馬は、今川氏真へ直親が家康と一味同心であると讒言する。今川は直親を討とうとして掛川城主朝比奈備中守へその先手を命じた。
 これらを客観的に見ると、小野と直満・直親には政治的な方向性の違いによる対立があったととらえられる。特に、小野氏は今川に対する取次を務めており、外交方針の見解が異なったのではないだろうか。徳川が入ってきて今川勢を駆逐した際に小野但馬守が命を奪われたのも、小野が今川と井伊をつなげる役割を果たしていたからであろう。
「井伊家伝記」は、直政の末裔である彦根藩主に読ませようと著したものである。そのため、直政の父祖を悪く描くことはしない。また、今川を滅ぼした徳川の時代のことでもあり、井伊氏と今川をつなげた小野氏は「敵役」のように悪く描かれ、その行為は「讒言」と評されたとみることができる。

 

 

直政家臣の小野氏

 直政家臣の小野氏としては、小野源蔵と小野八右衛門がいる。
 源蔵の父小野玄蕃朝直は、桶狭間井伊直満に従って討死したうちの1人である。母は奥山因幡守親朝の娘であり、直政の母と姉妹の関係にある。幼少期は亥之介と称し(「井伊年譜」)、直政が家康のもとに出仕をはじめたときに御供して城内に入り、家康から万福と名前を下されたという(「井伊家伝記」)。つまり、直政にとって源蔵は母方の従兄弟であり、直政の出仕当初から側近くで従っていた人物であった。
 源蔵と八右衛門、また和泉守・但馬守との関係については、それを示す小野氏系図がある。確認できたのは、享保14年の「小野氏系譜略并由緒書」(井村修『井伊氏と家老小野一族』所収)と、龍潭寺蔵「小野氏系図」(WEB静岡県史編さん収集資料検索システムにて画像公開)の二種類であるが、内容が類似しており(ただし龍潭寺系図では但馬守政次が記されていない)、元となる系図は同一と思われる。それらの系図では玄蕃と八右衛門を小野和泉守の息子とするが、「井伊年譜」や「井伊家伝記」ではそのような記述は見られないため、あえて関係は特定せず、同じ一族としておく。
 
 慶長7年(1602)の分限帳では、源蔵が1500石、八右衛門が500石。両名とも直継に従って安中へ移り、元和年中の安中分限帳では源蔵は700石で家臣団中四番目、八右衛門は500石で八番目の序列であった。源蔵の家系は代々七郎左衛門を称し、直継の家系(最終的に与板藩)で家老を務めた。また、源蔵の二男角右衛門は水戸徳川家に仕えたという。
 
 
参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
野田浩子「『井伊家伝記』の史料的性格」 (『彦根城博物館研究紀要』26、2016年)
 典拠史料
『新修彦根市史』6巻(彦根市、2002年)

 

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井伊谷龍潭寺にある小野氏一族の墓

井伊直政家臣列伝 その1 松下清景 ~直政の養父~ 

松下一族

 松下氏は遠江頭陀寺(浜松市南区)を拠点とする一族で、今川義元・氏真に仕え、その後徳川家康に出仕したという由緒をもつ。頭陀寺の近くには引馬城(のちの浜松城)があり、今川時代の松下氏は引馬城主飯尾氏の軍事配下に属す与力の関係(いわゆる寄親寄子の関係)にあったと考えられている。

 桶狭間の戦いの後、遠江の国衆らが今川から離反して徳川に味方しようとする(「遠州忩劇」)。飯尾氏もこのような動きを見せたため、永禄6年(1563)12月、今川の軍勢が引馬城を攻めるが、このとき飯尾氏は頭陀寺城に籠城しており、松下氏も飯尾氏と同調して戦っていたことがわかる。この戦いは一旦和睦するが、永禄8年に飯尾連龍(飯尾氏当主)が今川によって討たれ、飯尾氏周辺は混乱する。この混乱は、永禄11年12月に家康が遠江に進出し、まもなく平定したことでおおよそ収束する。家康は遠江の国衆を次々と味方につけて勢力をひろげ、浜松城を新たな居城とした。

 家康の遠江進出への松下氏の対応をみておこう。永禄12年1月段階では、清景の弟清綱が今川の配下にあって徳川を迎え討つ軍勢として出陣していた。ところが、永禄12年4月には「松下源五郎」に宛てて家康から本領安堵状が出されており、この時までに松下氏も家康配下に入ったことがわかる。

 松下氏の名字の地は、三河国碧海郡松下郷(愛知県豊田市)と遠江国山名郡浅羽庄松下(静岡県袋井市)の二つの説がある。このうち、清景の父である連昌の菩提寺(昌福寺)は後者にあるので、少なくとも遠江の松下と関係があったのは間違いない。
 松下氏の一族で有名なのは松下加兵衛之綱である。若き日の豊臣秀吉が一時期寄寓していたという伝承がある。年齢的に見て、その人物は之綱ではなく一世代前と考えられるが、之綱が秀吉から取り立てられて大名にまで出世していることから、関わりがあったのは間違いないだろう。


 今川配下時代の松下氏と井伊氏との関係について、江戸時代の松下家で作成された由緒書では次のように記されている。
 彦根藩士の履歴史料「侍中由緒帳」(松下十太家)に、連昌は井伊直盛の配下で各合戦に出陣し、清景は直盛・直親(直政の父)・直政に仕えたと記す。この記述に依れば、松下連昌・清景父子は今川時代に井伊氏の軍事配下にあったと読み取れる。
 しかし実際には、松下氏がもっとも深いつながりを持っていたのは飯尾氏であった。連昌・清景が松下氏の中核人物であれば、井伊氏よりも飯尾氏との関係の方が深いはずであるが、「侍中由緒帳」にはそのような記載はない。ただ、「侍中由緒帳」は主君井伊氏との関係に特化して叙述したという特質があるため、飯尾氏との関係には触れていないこともあり得る。その場合、井伊氏とのつながりは飯尾氏が滅亡した永禄8年以降に強まったと考えられる。飯尾氏の滅亡後に井伊氏の軍事配下に入ったと考えれば、前回みたとおり、永禄11年段階で松下氏が井伊氏の「七人衆」であったこととも齟齬しない。
 あくまでも仮定の上での推測であるが、一つの可能性として示しておきたい。

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頭陀寺の松下屋敷

直政を養子とする

 松下清景に直政の母が再嫁し、直政が清景の養子となった。これまで、母の再婚先に直政が伴われたという印象で語られているが、実際は逆ではないかと考える。それは、当時の領主階層では縁組は政治的なつながりのために行われるのが通常であり、この婚姻も政治的な理由が想定できるからである。この婚姻の目的は、直政を松下家に預けて養育することに主眼が置かれたものではなかっただろうか。直政が清景のもとに入った時期について、「侍中由緒帳」では清景が家康に仕官した後とする(但し年代は永禄11年。この年は家康が遠江に進出した年である)。井伊谷周辺が徳川配下に入った後、「七人衆」ら井伊氏関係者が相談し、直政が成人した暁には井伊氏当主にすえる方針を決定して、清景に養育を任せたのではないだろうか。その際、直政が井伊氏の跡継ぎであることが明らかとなればその身が危ないのでそのことは隠し、妻の連れ子として松下家に入れたと考えられる。当時、家康が遠江を手中に収め浜松城を居城としても、武田氏との争いは続いていた。井伊谷周辺はその境界に位置し、争いに巻き込まれている。それに対して頭陀寺は浜松に近く、比較的安全だった。もし、武田方に井伊氏跡継ぎの存在が知られ、その身柄が武田方に奪われると、人質として政治的駆け引きに使われると予想される。そこで、井伊氏の跡継ぎと知られず匿いつつ武家としての教育を受けさせようとして、清景の養子として松下家に入れたのではないだろうか。

 なお、「井伊家伝記」では天正2年(1574)12月、それまで三河鳳来寺に入っていた直政が父直親の13回忌のため龍潭寺にやってきたところ、龍潭寺南渓和尚が井伊氏の女性たちと相談して、家康へ出仕させようとして鳳来寺には戻さず松下氏へ忍ばせたとする。しかし、「井伊家伝記」の史料的性格を考えると、その文章中には井伊家が存続できたのは龍潭寺南渓和尚の功績であるという主張がちりばめられており、そのような叙述の部分は信憑性が低いと考える。直政が一時的に寺院へかくまわれたことがある可能性は否定できないが、少なくとも直政の母が再嫁して以降は直政は清景の庇護下にあったことだろう。

 直政が徳川に出仕した後も、清景はその傍らで支え続けた。
 直政配下で清景の活躍が確認できるものとして、天正13年(1585)の信州上田城攻めがある。同年、家康は上田城真田昌幸上野国沼田の領有をめぐって対立したため、配下の軍勢を上田城へ向けた。井伊隊にも出陣命令が下り、木俣守勝と松下が陣代として井伊隊の同心衆を率いて出兵した。
 この後も生涯にわたり直政に付き従い、慶長2年(1597)、直政の居城である上野国箕輪で死去した。

その後の松下氏

 清景の跡を継承したのは養子の一定で、その実父は井伊氏一族の中野直之である。天正18年(1590)の小田原の陣で父清景とともに出陣し、その後の直政の出陣にも従ったという。慶長7年(1602)の知行は2000石、彦根築城の際には普請惣奉行を務めた。
 元和元年(1615)、井伊家が直継・直孝の2系統に分割されると、一定は安中藩3万石を領した直継に家老として従った。当初、鈴
木重辰に次ぐ1500石の知行を得たが、のちに鈴木は井伊家から離れたため、筆頭家老となる。

 清景の系統は、江戸時代を通じて安中藩(数度の転封を経て最終的に越後与板藩)の筆頭家老として藩主井伊家を支え続けた。

 松下家は直政にとって養父と実母の家であり、井伊家の親戚としての扱いも受けている。直政は松下家へ歳暮・暑中など時候の品を届けており、時代が下ってもそ
の由緒が継承されて、貞享年中には白銀五枚、彦根の鮒鮨、佐野(栃木県、彦根藩飛び地)の松茸、参勤祝儀では高宮布が贈られたという。
 また、清景・一定以来の由緒により、松下家当主は毎年正月に江戸城に登り、将軍に対面している。一月三日の本丸白書院での対面儀礼で、旗本らの次に他の譜代重臣と一同で将軍の面前に出て御礼を申し上げ、太刀目録を献上した。このとき一緒に対面したのは榊原氏、奥平氏らの家老に限られていた。なお、彦根藩の家老はこのような由緒は持っていない。彼らが江戸城に登って将軍に対面するのは彦根藩主の代替わり御礼の時のみであった。
 
参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
浜松市博物館展示図録『徳川家康 天下取りへの道 ―家康と遠江の国衆―』(2015年)
 
 典拠史料
寛政重修諸家譜
「松下家遺書」(東京大学史料編纂所蔵)
彦根藩史料叢書 侍中由緒帳』3(彦根市教育委員会、1996年)
『新修彦根市史』6巻(彦根市、2002年)