井伊直政家臣列伝 その7 鈴木重好(後編) ~「井伊谷三人衆」から直政筆頭家臣へ~
直政家臣の筆頭
井伊隊の軍事構成は、2つの先備え隊と旗本隊を基本としたが、関ヶ原合戦の際には重好と木俣守勝が先備え隊の隊長を務めている。合戦後、重好が土佐浦戸城の受け取りに出向いたのも、そのような立場に基づいて派遣されたのであった。慶長7年(1602)の分限帳では、5500石という家臣団の中で最高の知行を得ている。
また、彦根城の築城工事の最中、視察にやってきた大久保長安へ応対したのも鈴木と木俣であり、幕府への応対や政務の上でも家臣の筆頭であった。
それは、重好は直政と従兄弟という関係にあったという点である。直政の母と重好の母は姉妹(奥山親朝の娘)であった。もちろん、中野三信・小野朝之など、ほかにも直政の従兄弟は配下にいた。そこで、今川配下時代の関係をみると、中野・小野らは井伊家の配下にあったのに対し、鈴木は今川直臣であり、独立した城主の立場で与力として井伊家とともに軍事行動をともにしていた。つまり、もともと対等な格の家柄であった親族のため、鈴木は井伊家の中で一門衆の扱いを受け、先手隊の隊長に取り立てられたと考えられる。
家中騒動と鈴木重好の井伊家からの退去
家中騒動は、直政没後の重好の行動に対し、他の重臣が不満を持つという関係で生じた。慶長10年(1605)6月、河手主水、椋原対馬、中野介大夫、西郷勘兵衛、松下源太郎は連名で、本多正純ら家康の側近に宛てて重好の行状を非難する訴状を提出した。そこには、金銀の不正流用、年貢未進の不正処分、役儀や賞罰・知行宛行の不正などが記されている。
元和4年になり、将軍秀忠の命によって水戸徳川頼房への付家老となった。水戸の家中には実戦経験が豊かな家臣がおらず、軍事経験豊富な重好をその家中に付けたということである。5000石の知行を拝領し、寛永10年(1633)に隠居した。その家督は、孫(重辰の男子)の重政が養子となり継承した。
その後も鈴木家は代々、水戸藩の家老を務め、幕末に至った。幕末水戸藩の藩内抗争では、穏健派の「諸生党」の中核におり、慶応4年(1868)、戊辰戦争が始まると対立した天狗党の残党により八代重矩・九代重棟らは捕らえられ、重矩は獄中病死、重棟とその息子らは斬罪となった。
井伊家家臣の立場の継承と断絶
ところが、寛永11年(10年という説もあり)に重辰が死去すると、その息子は幼少につき、惣領重信へ1500石(1000石とも)、二男へ500石、三男へ300石を相続するよう命じられた。それに対し、彼らの祖父である重好はそれに納得せず、寛永12年、重信ら三兄弟を井伊家の扶持から離して、直臣にしたいと幕府に願った。しかしそれが実現するまでに重好が死去してしまい、重信は牢人となり、二男と三男は帰農した。
これにより、鈴木家の嫡流で井伊家に仕える者はいなくなった。ただ、分家では井伊家に仕えている者がいる。鈴木石見守(重好)の甥という鈴木甚大夫重長を初代とする家で、300石~500石取で足軽大将などを務めた中級藩士の家である。
井伊直政家臣列伝 その6 鈴木重好(前編) ~「井伊谷三人衆」から直政筆頭家臣へ~
鈴木平左衛門尉重勝
鈴木三郎大夫重時
鈴木石見守重好
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、重好は井伊隊の先手として布陣した。合戦では他の部隊に先んじて一番に馬を入れ、井伊隊で討ち取った首級150のうち53は鈴木隊で討ち取ったものであったという。
重好の戦功として知られているのが、土佐浦戸城の接収である。合戦後、敵方についた長宗我部盛親の領地を没収することになり、直政は重好を土佐へ派遣した。しかし長宗我部の家臣が浦戸城に立てこもって抵抗し、接収は難航した。そのことを直政に報告すると、重好を叱責する返書が2通送られてきた。12月1日付書状では、あえて入魂な仲である井伊家が赴いたのに抵抗された不手際を叱責し、成果が得られなければ帰ってくるか、そうでなければ家康から軍勢を派遣して悉く討ち果たすのでお前たちもそこで討死するように、と強い口調で指示している。このことは脅しではなかったようで、12月5日の書状では、四国の大名に対し土佐への出陣命令が下りたことを伝えている。同日、浦戸では城の接収に成功し、重好もミッションを成功させた。
『新修彦根市史』6巻
井伊直政家臣列伝 その5 菅沼忠久 ~「井伊谷三人衆」の家~
菅沼一族
長らく駿河の今川氏の配下にあり、本拠から国境を越えて遠江へも勢力を伸ばしている。永正年間(1504~1521)、駿河の戦国大名今川氏親が遠江への侵攻をはかって遠江守護の斯波氏と対立し、西遠江各地で戦闘が繰り広げられていた際には、引間城の大河内氏や三岳城の井伊次郎が斯波方として戦う中、野田菅沼の定則が今川方として戦功をあげ、遠江国河合・高部郷を恩賞として与えられている。
井伊谷とは国境を挟むが距離的には近く、古くから井伊谷周辺の勢力とも関わりを持っていた。
菅沼忠久とその家系
「井伊谷三人衆」の菅沼忠久は、『寛政重修諸家譜』によると、父元景の代から井伊直親に仕えたという。また、「都田 菅沼次郎右衛門忠久」とも見え、井伊谷周辺の都田に居住していたと思われる。忠久やその父は一族からみれば庶流であり、長篠を離れて井伊氏の配下にあったのである。江戸時代後期になり由緒を重んじる意識が高まっており、彦根藩では井伊氏先祖に関わりの深い家をいくつか再興させているが、菅沼家もその一つと考えられる。
<家系>
初代 忠久
2代目 忠道 無嗣断絶
(旗本の家) 勝利 忠久の孫または落とし子、旗本の家として継承
再興 次郎右衛門 天保15年に彦根藩士の家を再興
忠久の弟の家系
一方、忠久の弟の子である定重は、17歳で召し出されて、直政の小姓として仕えている。ただし、関ヶ原合戦後、200石取となったが井伊家を離れて伊勢長島城主菅沼定芳(菅沼定盈の家系)の家臣となった。井伊家を離れたのは、関ヶ原合戦後の恩賞に満足しなかったからともいう。定芳のもとで当初は客分として300石、のち400石下され大坂の陣に出陣した。ところが、定芳の家督を継いだ定昭が無嗣断絶となったため、定重の跡を継いだ定朝は牢人となった。そのため、彦根藩に願い出て、寛文2年(1662)、井伊直澄より200石取で召し出された。以来、安永10年(1781)に6代目が改易されるまで、代々井伊家に仕えた。<歴代>
初代父 新右衛門 忠久の弟、病弱につき奉公せず
初代 新三定重(『寛政重修諸家譜』では作左衛門重吉としている) 直政小姓、関ヶ原合戦後、菅沼織部正に付く
2代目 作左衛門定朝 菅沼織部正家断絶後、寛文2年に彦根藩へ召出
菅沼淡路守家
菅沼姓をもつ直政家臣として菅沼淡路守がいる。慶長7年(1602)には菅沼藤太郎、同12年には菅沼淡路が1000石拝領しており、同一人物と考えられる。淡路は元和元年(1615)に井伊直継に付いて安中藩士となった。ただし、掛川分限帳には菅沼氏の名は見られなくなっており、掛川在城時(1659~1706)までに井伊家を離れた(または断絶)と思われる。菅沼淡路守(初代)は奥山親朝の娘と縁組みしている1人として奥山氏の系図に記されている。親朝の娘の1人に井伊直政の母がおり、直政と姻戚関係があったことになる。淡路守は『寛政重修諸家譜』などで確認できず菅沼一族の中での位置関係は不明であるが、「淡路守」という国司の官名を称しており、少なくとも「次郎右衛門」を称していた忠久より格上の人物であったと思われる。<歴代>
初代 淡路守:妻は奥山親朝娘
2代目 藤太郎、のち淡路と改称 井伊直継に付き安中藩へ
井伊直政家臣列伝 その4 松井四兄弟 ~二俣城主の一族~
宗信は桶狭間の戦いで討ち死にした今川方の国衆として存在が確認できる。桶狭間の敗戦後、今川の勢力が弱まると、二俣城は徳川と武田の勢力争いの舞台となり、松井一族は分裂して双方の配下に入ったことが知られている。一方、父とされる宗継は諸史料には登場しない。
「侍中由緒帳」には、清易らは井伊谷で生まれたとされており、彼らの父は井伊谷に居住していたと考えられる。清易らの父がほんとうに宗信の息子であったかは確かめようがないが、松井一族の一員として井伊氏配下にあり井伊谷に居住していたのではないだろうか。あるいは、松井氏の証人(人質)として井伊谷に送られていたかもしれない。いずれにせよ、松井氏が「井伊谷七人衆」にかぞえられるのは、清易らの父が井伊氏の配下にあり発言力を有していたためと考えられる。
*関ヶ原合戦図はこちらからごらんください
関ヶ原合戦図(井伊家伝来資料) | 彦根城博物館|Hikone Castle Museum|滋賀県彦根市金亀町にある博物館
松居武太夫 720石
松居善兵衛 300石
松居惣十郎 180石
とある。
井伊直政家臣列伝 その3 中野直之・中野三信 ~井伊氏の一門~
中野氏は井伊氏の一族で、井伊谷の中にある中野という地が本貫地という。井伊家の系図類では、井伊直平(直政の曾祖父)の父直氏の弟である直房を中野氏の祖とする。井伊氏や重臣と婚姻関係を重ねており、井伊氏の一門として重要な役割を果たした家である。
直房(井伊直氏の弟)― 直村 ― 直由 ― 直之 ― 三信
直之(又右衛門のち越後守)の由緒には、「直政様世に御出なされ候て又右衛門方へ有り付き申し候よし」(「木俣清左衛門家文書」)とある。この短文だけでは判断しがたいが、家康へ出仕した後の直政が直之の宅に居住していたということであろうか。少なくとも、直政の出仕当初からその傍らに直之がいたことは間違いないだろう。
三信やその弟(のちの松下一定)は直政よりも年下で、幼少の頃から直政のもとに仕えていた。合戦への従軍は、両名とも天正18年(1590)の小田原陣からという由緒をもつ。
井伊直政家臣列伝 その2 小野源蔵 ~井伊氏奉行の家~
小野氏の家系
それは、連歌師宗牧の紀行文『東国紀行』から明らかとなる。天文13年(1544)、旅の途中、井伊氏の所領を通過した宗牧は、城主「井伊次郎殿」の城ではなく和泉守の屋敷に一泊したという。先を急ぐため城山に登らず和泉守の所に宿泊し、翌日は都田方面へ向かったとあることから、和泉守は井伊谷城のふもとに屋敷を構えていたことがわかる。
- 和泉守は直親が当主直盛の跡継ぎとなることを良しとせず、直満が武田に対する戦の準備をしていたのを勝手に軍事準備していると今川に讒言したため、直満とその弟の直義は今川により討たれた。
- 直盛没後、小野但馬守は井伊谷を押領しようと陰謀を企んでいた。そのため、直親が家康と行き来していたのを知った但馬は、今川氏真へ直親が家康と一味同心であると讒言する。今川は直親を討とうとして掛川城主朝比奈備中守へその先手を命じた。
「井伊家伝記」は、直政の末裔である彦根藩主に読ませようと著したものである。そのため、直政の父祖を悪く描くことはしない。また、今川を滅ぼした徳川の時代のことでもあり、井伊氏と今川をつなげた小野氏は「敵役」のように悪く描かれ、その行為は「讒言」と評されたとみることができる。
直政家臣の小野氏
源蔵の父小野玄蕃朝直は、桶狭間で井伊直満に従って討死したうちの1人である。母は奥山因幡守親朝の娘であり、直政の母と姉妹の関係にある。幼少期は亥之介と称し(「井伊年譜」)、直政が家康のもとに出仕をはじめたときに御供して城内に入り、家康から万福と名前を下されたという(「井伊家伝記」)。つまり、直政にとって源蔵は母方の従兄弟であり、直政の出仕当初から側近くで従っていた人物であった。
源蔵と八右衛門、また和泉守・但馬守との関係については、それを示す小野氏系図がある。確認できたのは、享保14年の「小野氏系譜略并由緒書」(井村修『井伊氏と家老小野一族』所収)と、龍潭寺蔵「小野氏系図」(WEB静岡県史編さん収集資料検索システムにて画像公開)の二種類であるが、内容が類似しており(ただし龍潭寺蔵系図では但馬守政次が記されていない)、元となる系図は同一と思われる。それらの系図では玄蕃と八右衛門を小野和泉守の息子とするが、「井伊年譜」や「井伊家伝記」ではそのような記述は見られないため、あえて関係は特定せず、同じ一族としておく。
井伊直政家臣列伝 その1 松下清景 ~直政の養父~
松下一族
松下氏は遠江頭陀寺(浜松市南区)を拠点とする一族で、今川義元・氏真に仕え、その後徳川家康に出仕したという由緒をもつ。頭陀寺の近くには引馬城(のちの浜松城)があり、今川時代の松下氏は引馬城主飯尾氏の軍事配下に属す与力の関係(いわゆる寄親寄子の関係)にあったと考えられている。
桶狭間の戦いの後、遠江の国衆らが今川から離反して徳川に味方しようとする(「遠州忩劇」)。飯尾氏もこのような動きを見せたため、永禄6年(1563)12月、今川の軍勢が引馬城を攻めるが、このとき飯尾氏は頭陀寺城に籠城しており、松下氏も飯尾氏と同調して戦っていたことがわかる。この戦いは一旦和睦するが、永禄8年に飯尾連龍(飯尾氏当主)が今川によって討たれ、飯尾氏周辺は混乱する。この混乱は、永禄11年12月に家康が遠江に進出し、まもなく平定したことでおおよそ収束する。家康は遠江の国衆を次々と味方につけて勢力をひろげ、浜松城を新たな居城とした。
家康の遠江進出への松下氏の対応をみておこう。永禄12年1月段階では、清景の弟清綱が今川の配下にあって徳川を迎え討つ軍勢として出陣していた。ところが、永禄12年4月には「松下源五郎」に宛てて家康から本領安堵状が出されており、この時までに松下氏も家康配下に入ったことがわかる。
松下氏の名字の地は、三河国碧海郡松下郷(愛知県豊田市)と遠江国山名郡浅羽庄松下(静岡県袋井市)の二つの説がある。このうち、清景の父である連昌の菩提寺(昌福寺)は後者にあるので、少なくとも遠江の松下と関係があったのは間違いない。
松下氏の一族で有名なのは松下加兵衛之綱である。若き日の豊臣秀吉が一時期寄寓していたという伝承がある。年齢的に見て、その人物は之綱ではなく一世代前と考えられるが、之綱が秀吉から取り立てられて大名にまで出世していることから、関わりがあったのは間違いないだろう。
今川配下時代の松下氏と井伊氏との関係について、江戸時代の松下家で作成された由緒書では次のように記されている。
彦根藩士の履歴史料「侍中由緒帳」(松下十太家)に、連昌は井伊直盛の配下で各合戦に出陣し、清景は直盛・直親(直政の父)・直政に仕えたと記す。この記述に依れば、松下連昌・清景父子は今川時代に井伊氏の軍事配下にあったと読み取れる。
しかし実際には、松下氏がもっとも深いつながりを持っていたのは飯尾氏であった。連昌・清景が松下氏の中核人物であれば、井伊氏よりも飯尾氏との関係の方が深いはずであるが、「侍中由緒帳」にはそのような記載はない。ただ、「侍中由緒帳」は主君井伊氏との関係に特化して叙述したという特質があるため、飯尾氏との関係には触れていないこともあり得る。その場合、井伊氏とのつながりは飯尾氏が滅亡した永禄8年以降に強まったと考えられる。飯尾氏の滅亡後に井伊氏の軍事配下に入ったと考えれば、前回みたとおり、永禄11年段階で松下氏が井伊氏の「七人衆」であったこととも齟齬しない。
あくまでも仮定の上での推測であるが、一つの可能性として示しておきたい。
直政を養子とする
松下清景に直政の母が再嫁し、直政が清景の養子となった。これまで、母の再婚先に直政が伴われたという印象で語られているが、実際は逆ではないかと考える。それは、当時の領主階層では縁組は政治的なつながりのために行われるのが通常であり、この婚姻も政治的な理由が想定できるからである。この婚姻の目的は、直政を松下家に預けて養育することに主眼が置かれたものではなかっただろうか。直政が清景のもとに入った時期について、「侍中由緒帳」では清景が家康に仕官した後とする(但し年代は永禄11年。この年は家康が遠江に進出した年である)。井伊谷周辺が徳川配下に入った後、「七人衆」ら井伊氏関係者が相談し、直政が成人した暁には井伊氏当主にすえる方針を決定して、清景に養育を任せたのではないだろうか。その際、直政が井伊氏の跡継ぎであることが明らかとなればその身が危ないのでそのことは隠し、妻の連れ子として松下家に入れたと考えられる。当時、家康が遠江を手中に収め浜松城を居城としても、武田氏との争いは続いていた。井伊谷周辺はその境界に位置し、争いに巻き込まれている。それに対して頭陀寺は浜松に近く、比較的安全だった。もし、武田方に井伊氏跡継ぎの存在が知られ、その身柄が武田方に奪われると、人質として政治的駆け引きに使われると予想される。そこで、井伊氏の跡継ぎと知られず匿いつつ武家としての教育を受けさせようとして、清景の養子として松下家に入れたのではないだろうか。
なお、「井伊家伝記」では天正2年(1574)12月、それまで三河鳳来寺に入っていた直政が父直親の13回忌のため龍潭寺にやってきたところ、龍潭寺の南渓和尚が井伊氏の女性たちと相談して、家康へ出仕させようとして鳳来寺には戻さず松下氏へ忍ばせたとする。しかし、「井伊家伝記」の史料的性格を考えると、その文章中には井伊家が存続できたのは龍潭寺と南渓和尚の功績であるという主張がちりばめられており、そのような叙述の部分は信憑性が低いと考える。直政が一時的に寺院へかくまわれたことがある可能性は否定できないが、少なくとも直政の母が再嫁して以降は直政は清景の庇護下にあったことだろう。
直政が徳川に出仕した後も、清景はその傍らで支え続けた。
直政配下で清景の活躍が確認できるものとして、天正13年(1585)の信州上田城攻めがある。同年、家康は上田城の真田昌幸と上野国沼田の領有をめぐって対立したため、配下の軍勢を上田城へ向けた。井伊隊にも出陣命令が下り、木俣守勝と松下が陣代として井伊隊の同心衆を率いて出兵した。
この後も生涯にわたり直政に付き従い、慶長2年(1597)、直政の居城である上野国箕輪で死去した。
その後の松下氏
清景の跡を継承したのは養子の一定で、その実父は井伊氏一族の中野直之である。天正18年(1590)の小田原の陣で父清景とともに出陣し、その後の直政の出陣にも従ったという。慶長7年(1602)の知行は2000石、彦根築城の際には普請惣奉行を務めた。
元和元年(1615)、井伊家が直継・直孝の2系統に分割されると、一定は安中藩3万石を領した直継に家老として従った。当初、鈴木重辰に次ぐ1500石の知行を得たが、のちに鈴木は井伊家から離れたため、筆頭家老となる。
松下家は直政にとって養父と実母の家であり、井伊家の親戚としての扱いも受けている。直政は松下家へ歳暮・暑中など時候の品を届けており、時代が下ってもその由緒が継承されて、貞享年中には白銀五枚、彦根の鮒鮨、佐野(栃木県、彦根藩飛び地)の松茸、参勤祝儀では高宮布が贈られたという。
また、清景・一定以来の由緒により、松下家当主は毎年正月に江戸城に登り、将軍に対面している。一月三日の本丸白書院での対面儀礼で、旗本らの次に他の譜代重臣と一同で将軍の面前に出て御礼を申し上げ、太刀目録を献上した。このとき一緒に対面したのは榊原氏、奥平氏らの家老に限られていた。なお、彦根藩の家老はこのような由緒は持っていない。彼らが江戸城に登って将軍に対面するのは彦根藩主の代替わり御礼の時のみであった。