彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政家臣列伝 その1 松下清景 ~直政の養父~ 

松下一族

 松下氏は遠江頭陀寺(浜松市南区)を拠点とする一族で、今川義元・氏真に仕え、その後徳川家康に出仕したという由緒をもつ。頭陀寺の近くには引馬城(のちの浜松城)があり、今川時代の松下氏は引馬城主飯尾氏の軍事配下に属す与力の関係(いわゆる寄親寄子の関係)にあったと考えられている。

 桶狭間の戦いの後、遠江の国衆らが今川から離反して徳川に味方しようとする(「遠州忩劇」)。飯尾氏もこのような動きを見せたため、永禄6年(1563)12月、今川の軍勢が引馬城を攻めるが、このとき飯尾氏は頭陀寺城に籠城しており、松下氏も飯尾氏と同調して戦っていたことがわかる。この戦いは一旦和睦するが、永禄8年に飯尾連龍(飯尾氏当主)が今川によって討たれ、飯尾氏周辺は混乱する。この混乱は、永禄11年12月に家康が遠江に進出し、まもなく平定したことでおおよそ収束する。家康は遠江の国衆を次々と味方につけて勢力をひろげ、浜松城を新たな居城とした。

 家康の遠江進出への松下氏の対応をみておこう。永禄12年1月段階では、清景の弟清綱が今川の配下にあって徳川を迎え討つ軍勢として出陣していた。ところが、永禄12年4月には「松下源五郎」に宛てて家康から本領安堵状が出されており、この時までに松下氏も家康配下に入ったことがわかる。

 松下氏の名字の地は、三河国碧海郡松下郷(愛知県豊田市)と遠江国山名郡浅羽庄松下(静岡県袋井市)の二つの説がある。このうち、清景の父である連昌の菩提寺(昌福寺)は後者にあるので、少なくとも遠江の松下と関係があったのは間違いない。
 松下氏の一族で有名なのは松下加兵衛之綱である。若き日の豊臣秀吉が一時期寄寓していたという伝承がある。年齢的に見て、その人物は之綱ではなく一世代前と考えられるが、之綱が秀吉から取り立てられて大名にまで出世していることから、関わりがあったのは間違いないだろう。


 今川配下時代の松下氏と井伊氏との関係について、江戸時代の松下家で作成された由緒書では次のように記されている。
 彦根藩士の履歴史料「侍中由緒帳」(松下十太家)に、連昌は井伊直盛の配下で各合戦に出陣し、清景は直盛・直親(直政の父)・直政に仕えたと記す。この記述に依れば、松下連昌・清景父子は今川時代に井伊氏の軍事配下にあったと読み取れる。
 しかし実際には、松下氏がもっとも深いつながりを持っていたのは飯尾氏であった。連昌・清景が松下氏の中核人物であれば、井伊氏よりも飯尾氏との関係の方が深いはずであるが、「侍中由緒帳」にはそのような記載はない。ただ、「侍中由緒帳」は主君井伊氏との関係に特化して叙述したという特質があるため、飯尾氏との関係には触れていないこともあり得る。その場合、井伊氏とのつながりは飯尾氏が滅亡した永禄8年以降に強まったと考えられる。飯尾氏の滅亡後に井伊氏の軍事配下に入ったと考えれば、前回みたとおり、永禄11年段階で松下氏が井伊氏の「七人衆」であったこととも齟齬しない。
 あくまでも仮定の上での推測であるが、一つの可能性として示しておきたい。

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頭陀寺の松下屋敷

直政を養子とする

 松下清景に直政の母が再嫁し、直政が清景の養子となった。これまで、母の再婚先に直政が伴われたという印象で語られているが、実際は逆ではないかと考える。それは、当時の領主階層では縁組は政治的なつながりのために行われるのが通常であり、この婚姻も政治的な理由が想定できるからである。この婚姻の目的は、直政を松下家に預けて養育することに主眼が置かれたものではなかっただろうか。直政が清景のもとに入った時期について、「侍中由緒帳」では清景が家康に仕官した後とする(但し年代は永禄11年。この年は家康が遠江に進出した年である)。井伊谷周辺が徳川配下に入った後、「七人衆」ら井伊氏関係者が相談し、直政が成人した暁には井伊氏当主にすえる方針を決定して、清景に養育を任せたのではないだろうか。その際、直政が井伊氏の跡継ぎであることが明らかとなればその身が危ないのでそのことは隠し、妻の連れ子として松下家に入れたと考えられる。当時、家康が遠江を手中に収め浜松城を居城としても、武田氏との争いは続いていた。井伊谷周辺はその境界に位置し、争いに巻き込まれている。それに対して頭陀寺は浜松に近く、比較的安全だった。もし、武田方に井伊氏跡継ぎの存在が知られ、その身柄が武田方に奪われると、人質として政治的駆け引きに使われると予想される。そこで、井伊氏の跡継ぎと知られず匿いつつ武家としての教育を受けさせようとして、清景の養子として松下家に入れたのではないだろうか。

 なお、「井伊家伝記」では天正2年(1574)12月、それまで三河鳳来寺に入っていた直政が父直親の13回忌のため龍潭寺にやってきたところ、龍潭寺南渓和尚が井伊氏の女性たちと相談して、家康へ出仕させようとして鳳来寺には戻さず松下氏へ忍ばせたとする。しかし、「井伊家伝記」の史料的性格を考えると、その文章中には井伊家が存続できたのは龍潭寺南渓和尚の功績であるという主張がちりばめられており、そのような叙述の部分は信憑性が低いと考える。直政が一時的に寺院へかくまわれたことがある可能性は否定できないが、少なくとも直政の母が再嫁して以降は直政は清景の庇護下にあったことだろう。

 直政が徳川に出仕した後も、清景はその傍らで支え続けた。
 直政配下で清景の活躍が確認できるものとして、天正13年(1585)の信州上田城攻めがある。同年、家康は上田城真田昌幸上野国沼田の領有をめぐって対立したため、配下の軍勢を上田城へ向けた。井伊隊にも出陣命令が下り、木俣守勝と松下が陣代として井伊隊の同心衆を率いて出兵した。
 この後も生涯にわたり直政に付き従い、慶長2年(1597)、直政の居城である上野国箕輪で死去した。

その後の松下氏

 清景の跡を継承したのは養子の一定で、その実父は井伊氏一族の中野直之である。天正18年(1590)の小田原の陣で父清景とともに出陣し、その後の直政の出陣にも従ったという。慶長7年(1602)の知行は2000石、彦根築城の際には普請惣奉行を務めた。
 元和元年(1615)、井伊家が直継・直孝の2系統に分割されると、一定は安中藩3万石を領した直継に家老として従った。当初、鈴
木重辰に次ぐ1500石の知行を得たが、のちに鈴木は井伊家から離れたため、筆頭家老となる。

 清景の系統は、江戸時代を通じて安中藩(数度の転封を経て最終的に越後与板藩)の筆頭家老として藩主井伊家を支え続けた。

 松下家は直政にとって養父と実母の家であり、井伊家の親戚としての扱いも受けている。直政は松下家へ歳暮・暑中など時候の品を届けており、時代が下ってもそ
の由緒が継承されて、貞享年中には白銀五枚、彦根の鮒鮨、佐野(栃木県、彦根藩飛び地)の松茸、参勤祝儀では高宮布が贈られたという。
 また、清景・一定以来の由緒により、松下家当主は毎年正月に江戸城に登り、将軍に対面している。一月三日の本丸白書院での対面儀礼で、旗本らの次に他の譜代重臣と一同で将軍の面前に出て御礼を申し上げ、太刀目録を献上した。このとき一緒に対面したのは榊原氏、奥平氏らの家老に限られていた。なお、彦根藩の家老はこのような由緒は持っていない。彼らが江戸城に登って将軍に対面するのは彦根藩主の代替わり御礼の時のみであった。
 
参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
浜松市博物館展示図録『徳川家康 天下取りへの道 ―家康と遠江の国衆―』(2015年)
 
 典拠史料
寛政重修諸家譜
「松下家遺書」(東京大学史料編纂所蔵)
彦根藩史料叢書 侍中由緒帳』3(彦根市教育委員会、1996年)
『新修彦根市史』6巻(彦根市、2002年)

 

井伊直政家臣列伝 プロローグ 井伊谷七人衆

 新シリーズとして「井伊直政家臣列伝」の連載を開始します。
 
 『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』では、直政家臣のことも多く触れています。中には、史料を調べる中で新しくわかってきたこともあります。ただ、この本は直政が主役なので、家臣についてはわかったことすべてを出してはいません。
 そこで、毎回直政家臣を1人ずつ(場合によっては数名になるかも)とりあげ、それぞれの活動や直政との関係を示していきます。
 
 最初は、直政が井伊氏当主となる以前に井伊氏の中核を担っていた者についての新しい見解についてです。
 それではどうぞ。
 


プロローグ 井伊谷七人衆 ~直政以前の井伊家家臣~

 井伊谷七人衆とは・・・?
 初めて目にする方も多いだろう。

 まず、辞書的な定義を述べると、
 
徳川家康遠江に侵攻した永禄11年(1568)頃、成年男子の当主が不在であった遠江の有力国衆井伊氏のもとで政務をつかさどっていた井伊氏の一門・重臣・与力の七氏。
 

となる。

具体的には、「井伊谷三人衆」と呼ばれた菅沼忠久近藤康用鈴木重時に加え、井伊氏の家老であった小野、井伊一門の中野、周辺国衆の松下、松井の七氏で構成される。
 
 七人衆のことを初めて紹介したのは、『井伊直政 家康筆頭家臣の軌跡』においてあった。典拠は『譜牒余録』。江戸時代に幕府が諸大名から提出させた家譜・文書をもとに作成した編纂物で、菅沼主水の由緒を記す部分にこの七人のことが記されており、著書でそのことを紹介した。
 一方、「井伊谷三人衆」という表現は江戸時代から使われている。家康の遠江進出の際に井伊谷へ手引きをした三人としてそのように称された。しかし三氏の本拠地は井伊谷ではなく、遠江との国境に近い三河国内である。その彼らが井伊谷においてどのような影響力を持っており、家康を井伊谷に引き入れることができたのだろう。なぜ「井伊谷」三人衆と呼ばれてきたのだろう。これまでは、それらについて充分に納得できる説明がされてきていないように思う。
 そこで、「三人衆」を含む七人衆とは当時の井伊谷でどのような存在だったのか、考えていきたい。
 
 当時の井伊氏は、戦国大名今川氏の配下にある「国衆」と位置づけられる。国衆とは、一定領域を支配していた地域権力である。大名今川氏が命じる軍事動員に従うかわりに所領支配が認められるという関係にあった。井伊氏は西遠江の有力国衆で、周辺の者を動員してしばしば今川氏の軍事動員に応じている。

 実際、井伊氏の軍勢が今川の要請に応じて出陣したものとして次のものがある。
 この二例より、永禄6~7年頃に当主が不在となっていても、一族が当主代理(陣代)を務めて軍事組織を統率していたことがわかる。
 つまり、井伊氏はリーダーが不在の時期には有力家臣らが分担して地域権力としての仕事をしており、組織は機能していたと考えるのがいいだろう。似た例としては、豊臣秀吉の没後、幼少の当主秀頼のもとで五大老五奉行によって政務が執行されていたことが思い浮かぶ。
  
 近年の戦国大名研究によると、戦国大名の周辺で外交交渉などの政務は側近や一門が担っていたことがわかっている。井伊氏にあてはめると、側近とは家老小野氏、一門としては中野氏、新野氏などが相当すると考えられる。
 また、大名の軍事編制では、地域の拠点となる城を置き、その城主や家臣に加えて周辺の中小の国衆・土豪を与力として配属させて部隊を編制していた。具体的に述べると、井伊氏を中核として「井伊衆」という軍団が編制されて今川からの軍事動員にこたえていた。井伊衆の構成員は井伊氏の一門・家臣に加え、その周辺で今川の配下にある武家も多くいたと考えられる。彼らは井伊氏の家臣ではなく、軍事組織として配下にある関係で、同心・与力などと呼ばれた。この編制は軍事上にとどまらず、政治的にも井伊氏は大名今川氏と与力との間を仲介した。例えば与力が軍事上の功績や政治的な願出をする際には井伊氏を通じて行なわれている。
 
 東三河の菅沼・鈴木・近藤は、井伊衆の与力という立場にあったと考えられる。それを示す文書として、永禄6年5月22日付の今川氏真から鈴木重勝に宛てた感状がある(『静岡県史』資料編7所収)
。これは、鈴木が山中・大野郷の百姓を今川の味方につけたことを賞するもので、本文中に井伊谷から注進(報告)があったと記している。この頃、桶狭間の戦いの敗北によって徳川家康など今川からの離反者が出ており、東三河から遠江にかけて今川対反今川の争いが繰り返されていた。そのような中、鈴木が山中・大野郷の百姓を今川方に引き込むことに成功したため、その旨が井伊氏を通じて今川へと報告された。この感状は報告を受けた今川が鈴木の活動を賞したものである。
 鈴木の功績が井伊氏を通じて今川へ報告されており、鈴木氏が井伊衆の配下にある与力であったと考えられる。
 
 このように、鈴木ら「三人衆」は与力として井伊氏と密接な関係を持っていたと思われる。このほか、七人衆を構成する松下氏や松井氏も井伊氏の家臣ではないが、同様に井伊氏と関わりが深く、当主不在時期の井伊氏を主導したと考えられる。
 

 

朝鮮通信使と鳥居本宿

 先日、中山道鳥居本宿(彦根市鳥居本町)で開催された「とりいもと宿場まつり」の催しの1つとして、「朝鮮通信使鳥居本宿」というテーマで講演をしてきました。そこでは、通信使の通行と鳥居本宿との関わりについて紹介しました。
もちろん、先日刊行した『朝鮮通信使彦根 記録に残る井伊家のおもてなし』(サンライズ出版)で著した内容がベースになっていますが、それ以外に、宿泊・休憩をしていない街道上の宿場町であっても通信使の来日に対して独自の関わりがあったことを述べました。その概要を紹介します。

 

まず、鳥居本宿の人馬も通信使一行の輸送体制に組み込まれた点について。
宿場の主な機能に伝馬継立がある。宿場に人足と馬を常備しておき、隣の宿場まで輸送する仕事である。鳥居本宿のある中山道江戸幕府の道中奉行が管轄する街道であり、鳥居本宿にも伝馬継立を差配する問屋場が置かれ、人足と馬を50人・50疋常備することになっていた。通常は、宿駅ごとの伝馬継立によって輸送され、鳥居本からは中山道の高宮宿・番場宿と、彦根城下町に置かれた彦根宿、北国街道の米原の4か所へ継ぎ立てすることとなっており、幕府から公定駄賃も定められていた。

ところが、朝鮮通信使の通行時はこのような通常の輸送では行なわれなかった。通信使の輸送は規模が大きく、大量の人馬を必要とするため臨時体制がとられたのである。年代によって詳細は異なるが、1日分もしくは数日分の区間ごとの輸送がその地域の大名らに命じられた。それらのうち、彦根を出発して1日分の区間は、通常、彦根藩が輸送した。往路は彦根から大垣、復路は彦根から守山の区間である。この輸送には鳥居本の人馬も動員されたと考えられる。それは、彦根宿は日常的には伝馬継立の仕事はしなかったが、朝鮮通信使など臨時に輸送する際には彦根藩領内4宿(番場・鳥居本・高宮・愛知川)より人馬を呼び寄せるという定めがあったことからわかる。使節が通行する当日はもちろん、事前準備にやってきた幕府役人らが彦根宿から出発する輸送の一部を鳥居本宿の人馬が担ったと考えられる。

 

次に、通信使が通った街道の整備について。
彦根藩は、藩領内の通信使通行ルート上の整備を行なった。その1つに高札場の改修がある。高札は風雨に晒されて年月を経ると文字が読みづらくなっていくが、通信使の通行に際して、文字が読みづらいものは板を削るか文字を書き直すといった修繕が施された。また、街道の入り口に築かれた竹矢来も整備された。

彦根藩領内の街道の整備の実態として、次のような記録が残る。
第5回(寛永20年)の復路で、随行した対馬藩宗氏から幕府老中へ進行状況報告を伝えた書状に、「今須から彦根への道中で掃除人も付け置いており、道中の道には砂を置き、彦根町中の人が通る筋ではない所まで掃除が行き届いていた。見物人の作法も行儀よく、辻での警固もしており、格別の馳走であった。」と記されている。
この道中に鳥居本も含まれる。鳥居本宿内も掃除が行き届き、街道の両側で人々が通信使の行列を見物したことであろう。


鳥居本宿の人々にとって朝鮮通信使は、人馬の御用を負担し、宿場周辺の整備を指示され、相応の負担も課せられたものであったが、朝鮮人御用に関わる負担は全国に及んでいることであり、鳥居本に特有のものではない。その一方で通信使が目の前を通行し、行列を間近に見ることのできるのは限られた地域である。鳥居本は数少ない通信使の行列が目の前で見物できる「特等席」であったといえる。
 

 

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朝鮮人街道の謎に迫る その6 名称

 今回は朝鮮人街道」という街道の名称について。

 

現在は一般的にこの名称が使われているが、江戸時代の史料を見る限り、これが公式な名前ではなかったことがわかる。江戸時代にはいくつも呼び名があり、むしろ「朝鮮人街道」という名を探す方が難しいほどである。


江戸時代の絵図や文書を見ていくと、佐和山海道、御上洛道、朝鮮人道、御所海道、唐人海道など、さまざまな表記を見つけることができる。

有名なものは、幕府が作製した「五街道分間延絵図」(現在は東京国立博物館と郵政博物館が所蔵)で、朝鮮人街道のタイトルは「朝鮮人見取絵図」である。

早い段階の表記では、江戸時代前期に描かれたとされる「東海道中山道甲州街道図屏風」(篠山市立歴史美術館蔵)に、野洲側の分岐点付近に「佐和山海道」と記される。

幕末から明治初年頃の地元での呼び名には「唐人海道」というものが見られる。明治初年に作製された村ごとの耕地絵図(『彦根 明治の古地図』)には、そのような記載がある。


では、「朝鮮人街道」と名称が統一されたのはいつのことであろう?


江戸時代の間は名称を統一する必要性はなかったが、明治時代になり、政府が街道を管轄するようになると、地域でさまざまな名称で呼ばれていた道路に統一した公式名称がつけられることととなった。滋賀県の行政文書をたどると、明治2年には、地元でこの街道を朝鮮下街道、朝鮮人往来、唐人街道江州八幡街道と呼んでいる文書が確認できるが、政府が全国の道路を統一的に把握する政策のもと、明治7年には滋賀県がこの街道を「朝鮮人街道」と名付けた。

 

江戸時代には、それぞれの地域でわかりやすい名前をつけていたため、同じ街道であっても呼び名がいくつもあった。野洲、八幡、彦根それぞれの地域での呼び名が異なっていても不具合は生じなかった。しかし、明治になり全国を統一的な基準で統治する社会になると、行政政策上、名称を固定化されることになり、「朝鮮人街道」が正式な名称となったのである。

  

 

詳しくは、こちらの書籍をご覧ください。
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朝鮮人街道の謎に迫る その5 通行者の謎

朝鮮人街道についての解説の中で、「一般人の通行が禁じられていた」「将軍以外では唯一朝鮮通信使の通行が認められていた」というものを見たことがある。
この表現は正確なのだろうか?検証してみたい。

 

まず前提として、参勤交代や幕府役人など幕府公用での通行と、庶民の私的な通行を区分して考えたい。

参勤交代の大名が朝鮮人街道を通行しなかったのは確かである。西国の大名が参勤交代で通るのは原則として東海道で、事情によって中山道を通行することもあった。幕府は東海道中山道に宿場を置いて大名の宿泊施設である本陣を設置しており、大名が通行・宿泊するための設備が整えられていた。
一方、朝鮮人街道は彦根城下町を貫き、城下の伝馬町に「彦根宿」が置かれたが、この宿は中山道から彦根城下町に引き込まれた宿駅で、伝馬機能のみを持ち、宿泊機能は常備していなかった。彦根に立ち寄る目的がある場合に限り、彦根城下町に入り込む朝鮮人街道を通行し、彦根宿でも臨時の宿泊に応対した。
彦根へ立ち寄った公的な旅行者は、上洛する将軍と朝鮮通信使の他には、将軍代替わりごとに派遣された幕府の巡検使があった。そのほか臨時の幕府公用旅行者として伊能忠敬の一行もいる。彼らは朝鮮通信使を通行している。

一般の旅行者も、彦根や周辺の村々に用事のない者が通過するためだけに朝鮮人街道を通ることは考えにくい。一方、朝鮮人街道は彦根と周辺村落をつなぐ道筋でもあり、彦根藩関係者や地元の者が日常的に通行するのに支障があった訳ではない。

 

以上より、朝鮮人街道は、一般の通行が「禁じられていた」というより、彦根や街道上の村々に用事がなく通過するだけの旅行者が通行することを想定しておらず、宿泊施設なども常備されていなかったため、通行しなかったというべきであろう。

 

 

 

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朝鮮人街道の謎に迫る その4 幕府の街道政策の中で

 今回は、朝鮮人街道が江戸幕府の街道政策においてどのような位置づけであったのかを考えたい。

 

 まず前提として、幕府の管轄していた街道の区分を確認しておくと、

  Ⅰ 道中奉行の管轄していた五街道およびその附属街道

  Ⅱ 勘定奉行が地元領主を通じて取り扱った脇往還

に大別できる。


 中山道は当然五街道に含まれるが、朝鮮人街道はどういった位置づけであったのだろう。
 これを的確に示しているのが、道中奉行が作成した五街道他の「見取延絵図」であろう。道中奉行が支配下の街道を調査して作製し、文化3年(1806)に完成したものである。この時作製された絵図の一つに「朝鮮人道」があるため、この街道が道中奉行の管轄する街道であり、上記Ⅰにあたることがわかる。


 また、道中奉行から各宿へ宛てた文書を見ると、鳥居本・高宮など中山道の宿駅一斉に出した文書の宛先に「彦根」が含まれることがある。
 この「彦根」とは、朝鮮人街道が彦根城下町に引き込まれ、城下の伝馬町に置かれた宿駅「彦根宿」のことである。
 幕府は、荷物を輸送させるため伝馬宿継の仕組みをつくった。宿駅に一定数の人馬を配置し、それを使って荷物を次の宿へと継ぎ送る。宿駅の中で伝馬宿継を担った施設が問屋場である。

 

 伝馬町内には問屋場が置かれ、荷物を輸送する人足と馬が常備されていた。また、宿場の中央には他の宿駅と同様、幕府の基本法令などを記した高札が掲げられており、その一枚には彦根宿から鳥居本宿と高宮宿への公定賃銭を記した札もあった。つまり、鳥居本彦根間と、彦根-高宮間は、中山道から彦根城下町へ引き込まれた街道としての機能を有していた。
 一方、彦根宿から南下する方向へは日常的に公的な荷物を輸送することを想定しておらず、臨時に幕府公用の荷物を運ぶ時には彦根藩領の四宿から人馬を呼び寄せて御用を務めることになっていた。

 

 以上より、朝鮮人街道は幕府の管轄という点では中山道の附属街道という位置づけであったが、伝馬宿継の機能を持つのは鳥居本彦根間だけで、それ以南は日常的な幕府公用の通行が想定されておらず伝馬宿継機能を持たなかった。


 他の街道とくらべると、この街道に与えられた機能は限定的であったといえるだろう。

 

 

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朝鮮人街道の謎に迫る その3 整備の経緯 

 

  前回、朝鮮人街道は下街道(巡礼街道、信長の整備した佐和山城から安土城へ向かう街道)をもとに、江戸時代初期に整備されたことを示した。

 今回は、江戸時代初期に整備された経緯を考える。

 

 これを考えはじめたきっかけは、慶長12年(1607)の第1回通信使の時点では、彦根城下町や朝鮮人街道はどの程度整備されていたのだろう? という疑問であった。当時、彦根城は築城工事中で、慶長12年の早い段階で公儀普請は完了したと考えられているが、第1回通信使を迎える前にどの程度の宿泊施設が整備されていたのかを考えてみた。


 調べはじめると、慶長10年に上洛した徳川秀忠一行が「佐和山」に宿泊していたが、このことは彦根築城の歴史においてこれまであまり注目されてこなかったことに気づいた。しかもこの上洛は秀忠が将軍宣下を受けて将軍となるためのものであり、大人数で上洛している。幕府の成立にとって重要な意味をもつ大がかりな儀礼的行為でもあり、事前に街道や宿泊場所が整えられた。

 秀忠の宿泊場所を「佐和山」と記すのは「慶長見聞録案紙」という史料で、この史料は全体的に秀忠の動向が比較的詳細に記されている。そこに「佐和山」と記してあっても、廃城となった佐和山城のこととは限らない。江戸の将軍周辺にいる人々にとって、彦根という地名はまだなじみ薄く、引き続きこの史料では井伊家を「佐和山城主」と記していたからである。
 また、彦根城の工事では、周辺の廃城から石材などが集められたという伝承があり、実際に佐和山城跡には石垣がほとんど残っていない。そのように考えれば、慶長10年の秀忠上洛で宿泊したのは佐和山城ではなく、築城工事中の彦根城であろう。また、慶長9年10月に大久保長安彦根にやってきて築城工事の進捗状況を見分したのも、秀忠上洛の準備のためと考えられる。

 そうであれば、秀忠が宿泊する御殿に加え、多くの随行者の宿泊所が必要となり、急ぎ彦根城下町に宿泊施設が設営されたと考えられる。同時に、彦根からの上洛道も整備されたことであろう。

 

 一方、第1回通信使の通行ルートはいつ決定したのであろう。
 第1回の通信使は、朝鮮からの外交使節が江戸へ向かう初めての機会であり、どのルートを通るか事前に確定していたわけではなかった。使節は途中、京都に20日以上も滞在しているが、これは京都所司代板倉勝重が通信使の処遇について江戸へ問い合わせをして回答を待っていたためである。その回答の中に、通信使が江戸へ向かうルートが指定されていたことであろう。幕府の意向により、一行は将軍上洛道を通って彦根城下町に宿泊するルートを通り江戸へ向かった。
 これを先例とし、次回以降の通信使でも同じルートを通行したため、通信使の通行ルートが確定することとなったのである。

 

 徳川将軍の上洛は寛永11年(1634)を最後として幕末まで途絶えてしまう。そのため、将軍上洛道を通る最大のイベントが朝鮮通信使となり、人々にもその記憶が残ることとなった。

 

 なお、彦根周辺での下街道の新道(江戸時代の朝鮮人街道)への付け替えについて、第1回通信使の時点ですでに行なわれていたかどうかは明らかではない。少なくとも慶長10年の秀忠上洛では、宿泊所などの整備を最優先としたはずなので、新道を敷設する余裕はなかったと思われ、すでにある旧道(巡礼街道)を通行した可能性が高い。元和元年から8年の城下町整備工事に際して、伝馬町の設置とともに城下へ引き入れる街道も敷設されたのではないだろうか。

 

 

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朝鮮人街道 彦根城下町周辺

 

 

 

詳しくは、こちらの書籍をご覧ください。
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