彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政の菩提所 その2 高野山奥の院

 

 高野山奥の院、一の橋から弘法大師の御廟までの参道の両側には、戦国武将や大名の墓が多く建てられていることはよく知られている。

 その中に井伊直政のものもある。御廟に向かう奥の院参道の左側、参道から少し奥に入ったところに、井伊家の墓所が2か所ある。その一つが直政の御霊屋を中心として井伊家一族の塔が建てられた一角である。直弼の供養塔もそこに建てられている。そのほか、直孝の御霊屋とその妻室・娘らの塔は少し離れた別の一角にある。

 

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高野山奥の院にある井伊直政御霊屋

 

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井伊直弼の供養塔

その場所は、高野山宿坊組合等が発行されているリーフレット高野山奥の院の墓碑をたずねて」に示されているが、実際行ってみるとわかりづらい。江戸時代の史料の中に墓所の配置図があったので、それを手がかりにしてようやく特定することができた。

(下図の60が井伊直孝の供養塔エリア、その右側「彦根井伊家供養塔」が直政・直弼らの供養塔エリア)

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リーフレット高野山奥の院の墓碑をたずねて」より


 江戸時代、高野山と井伊家をつなぐ役割をしたのが塔頭寺院の清凉院である。奥の院の井伊家墓所も清凉院が管理していた。清凉院は、墓所の新規建立や維持管理、歴代の遠忌法会の執行などに際して、井伊家から費用を受け取っている。これらは、彦根藩の者がわざわざ高野山まで行くのではなく、清凉院の者が彦根へやってきて、供養のために必要な経費の見積額を提示し、彦根藩から受け取っていた。
 
 清凉院は高野山塔頭寺院が建ち並ぶ一角に現存している。そのサイトを見ると、井伊家と同じ橘紋であった。「清凉」は直政の法名「祥寿院殿清凉泰安居士」に由来し、創建そのものが直政と関わっているのであろうか。一度訪問して確認してみたい。

高野山清凉院 瞑想道場

 

井伊直政の菩提所 その1 長松院

 戦国武将や江戸時代の大名は、菩提寺のほかにも、ゆかりの地に廟所・供養塔が造られたり、位牌が置かれて供養されていることがあります。井伊直政の場合も墓所のある清凉寺のほかにゆかりの菩提所がいくつかありますので、それぞれを紹介していきます。

 

まずは、荼毘の地、長松院。

 直政は、関ヶ原合戦の約1年半後、慶長7年(1602)2月1日に佐和山城で死去した。42歳。関ヶ原合戦前から体調不良に悩まされていた上に、合戦で鉄砲傷を負っていた。そのため、慶長6年3月に佐和山に入るとまもなく、伊豆へ湯治に出かけ、同年12月には有馬へも行っている。しかし湯治により体調を回復させることはできなかった。
 直政の遺骸は、善利川の中洲で火葬された。
 その跡地には長松院という寺院が建てられている。城地が佐和山から彦根に移されたことにより、直政火葬の地は城下町の中心地に位置することになった。しかし、直政が死去した時にはここに城下町を築く計画はまだなされておらず、佐和山方面から見て、城下町の先に流れる善利川の向こうにあたる「彼岸」の地で荼毘に付したと考えられる。

 

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 長松院に伝わる由緒書「彦根長松禅院記」によると、火葬の地に兵器を副葬して塚を建てた。当初は家臣の脇・秋山・越石の3名昼夜交代で番をしていたが、彼らには通常の勤めもあるので、越石の親族である永胤老師を甲斐国から招き、師がここに長松院を建立したという。
(「彦根長松禅院記」の全文は長松院のサイトに掲載されています)

長松院のサイトはこちらから→  萬年山 長松院 - 井伊直政公の寺 長松院

 

 墓地の一角に、直政の供養塔とそれを示す碑が建てられている。

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 碑には「井伊直政公火化委骼之処」とあり、側面には明治34年の直政三百回忌に旧領内有志の者が建てたと記す。「火化委骼」(委骼を火化す=遺体を火葬する)の文言は「彦根長松禅院記」からの引用。
 碑の文字は旧彦根藩士の西村捨三の筆。西村は維新期彦根藩の中核にいた人物で、明治政府では内務官僚・沖縄県令・大阪府知事などを歴任した。
 明治34年には、彦根で直政入部三百年を記念する「彦根城開城三百年紀年祭」が大々的に実施されたが、これを実質的に取り仕切ったのが西村であった。長松院の直政供養塔の整備も、紀年祭の中の一事業として藩祖直政を顕彰する企図のもとで実施されたものである。

 

史料に登場する井伊直政の足跡 第8回藤森の警固

 実際に交戦のあった戦いでは、それぞれの部隊がどのような規模でどのような動きをしたのかといったことはよく紹介されているが、実戦にはいたらなくとも、軍事部隊が出動する機会は多くあった。規模の大小はあれ、日常的にも城の入り口や領地の境界、交通の要衝などに兵を配置しており、軍事的緊張が生じると軍事上の要地の警備を強化していった。

 

 井伊直政の部隊が、関ヶ原合戦前の政情不安な頃に伏見と京都を結ぶ街道を警固していたことが史料上、確認できる。

 慶長3年(1598)8月、豊臣秀吉が死去した時点では、直政は部隊を率いて在京していた。徳川家康は豊臣政権の大老として在京しており、その家臣たちは5つの組を編成して、原則として半年交替で家康の周辺を警固した。
 5つの組の1つを率いていたのが井伊直政で、同年2月頃から番役のため在京していたようである。本来ならば8月に帰国するはずであるが、秀吉の重体から死去という政情不安を受けて、直政は引き続き京都に滞在していた。


 秀吉が死去する直前の慶長3年6月、直政の部隊は伏見から京へ向かう街道上にある藤森で警固していたが、同月16日、伏見城下で騒動が生じたので直政は家康のもとへ駆けつけて騒動の元を探ったと「寛政重修諸家譜」に記されている。
 この話の元を探ると、家康家臣の戸田氏鉄による「戸田左門覚書」にたどりつく。
 そこには、6月16日、嘉定の祝儀のため秀吉は石田三成浅野長政長束正家らと対面したが、その際「秀頼が15歳になれば天下を譲ろうと思う。秀頼を天下の主としてこの祝儀を見るのが本望であるが、命が尽きるため残念だ」と述べ、それを聞いた者は涙して退出したため、周囲の者は秀吉が死去したと勘違いしてそれが広まり、騒動となったという。伏見の騒動を聞きつけて、直政は藤森より家康のいる伏見の屋敷に参上したとある。

 秀吉が重篤な状態となり、騒動となったのはこの日以外にもあり、また、史実としては6月16日には石田三成は九州に出向いており伏見にはいないため、上記の逸話がどこまで真実か疑わしいが、この頃秀吉の病状が悪化しており、それに伴って伏見周辺が慌ただしくなっていたのは事実であろう。

 また、「慶長見聞書」には「伏見騒動之事」として6月16日と7月16日の夜に伏見で騒動があったと記す中で、井伊直政榊原康政本多忠勝水野忠重などが藤森に屋敷を置いていた。ただこの時は直政だけが伏見にいたとする。

 

 伏見城下町の諸大名屋敷配置図はいくつか現存するが、後世に伝わった伝承を地図に落としたという性格が強いものであり、描かれている内容だけから秀吉時代の大名屋敷の配置を正確に復原することは困難である。

 藤森は、伏見城下町の最北端で、京都へとつながる街道沿いに位置する地で、街道沿いには藤森神社が現存する。
 「戸田左門覚書」も「慶長見聞書」も同時代史料ではないが、実際に警固を務めた経験を持つ徳川家臣が江戸時代初期には多くいるはずなので、ここに記されていることは架空のものではないだろう。 

 伏見城下町の絵図を見ると、藤森の北側、稲荷方面へ続く街道近くに伊達政宗下屋敷は示されている。そのほか、藤森神社の周辺にも武家屋敷が建ち並んでいる。「慶長見聞書」にあるように、徳川家臣の駐屯地が藤森周辺に置かれていたのか、それとも別の所にある徳川の下屋敷に住まいながら、警備のために藤森へとやってきていたのかは不明であるが、直政が藤森・伏見や京を行き来しながら治安維持にたずさわっていたのは確かであろう。

 

 直政は翌慶長4年7月末に伏見から関東へ帰国する。家康と石田三成らとの間での政争が一段落したので、ようやく帰国することができた。半年の在京の予定がその3倍も滞在しており、家臣ともども「くたびれた」という感想を残している。

   

 

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 伏見城下町復原図 『京都の歴史』第4巻より

 

彦根城見学に向けての事前学習

 昨日は、岐阜県のある小学校に行ってきました。今度、6年生が校外学習で彦根城へ見学に行くにあたり、事前に学習しておきたいということで、その講師として招かれました。


 メインの話は、彦根城は、いつ、誰によって、なぜこの場所に建てられたのか、といったことや、彦根城を見学する際の見どころでしたが、さらに、お城とはどういうものか?という基本的なところまで話をしました。


 実は、お城、特に織豊系城郭の特徴は、とうてい小学生レベルのテーマではないのですが、佐和山城を廃して彦根城に移した理由を考えるには必要な視点なので、そういったことも入れてみました。もちろん「織豊系城郭」といった用語は使わずに。それでも、パワーポイントとワークシートを使った授業で、おおむね理解していただけたようです。
 45分授業を2時間分、90分とたっぷり話をする時間をとっていただき、時には、話した内容について、社会の授業で学んでいるね、といった担任の先生からのフォローする発言もありました。


 外部から講師を招いて専門家から話を聞こうという校長先生の姿勢と、これまでの学習と関連させて意識づけをしようとする担任の先生のおかげで、生徒さんたちは彦根城に興味を持っていただけたようで、実りある事前学習になりました。

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史料に登場する井伊直政の足跡 第7回岐阜城攻め

 ”天下分け目”の関ヶ原合戦(慶長5年9月15日の関ヶ原での戦いだけでなく、同年7月の石田三成挙兵から講和成立まで)の中で、東軍(徳川勢と親徳川の豊臣諸将)が岐阜城を1日で落城させたことが、その後の戦況に大きく影響したことはよく知られている。

 今回は、岐阜城攻めの中で、井伊隊がどのように行動し、諸隊の中でどのような位置づけであったのかを見ていきたい。

 岐阜城攻めを行ったのは、会津出兵へと向かっていた諸勢のうち、東海道を西上して清洲城に集結していた諸将であった。福島正則池田輝政をはじめとする豊臣恩顧の諸将らがその中心を占めていた一方、徳川家臣は部隊を率いているのは井伊直政のみで、それに本多忠勝が体調面の不安な直政を補佐すべく同行しているに過ぎなかった。


 8月14日、直政は諸将とともに清洲城に入り、家康の到着を待ったが、家康は出馬する様子を見せず、代わりに村越茂介を使者として遣わした。この時の逸話として、諸将は家康が出陣する気配を見せないことを村越に詰問したところ、村越が「諸将が手出しをしないから家康は出陣しない」と言い放ったため、即時岐阜城を攻めることを決定したという。この挑発的な発言は逸話に過ぎないが、このとき諸将が岐阜城を攻撃するという作戦を立てて実行に移したことには間違いない。

 岐阜城へは二手に別れて進軍することになった。直線的な上流のコースは池田輝政浅野幸長山内一豊らが進み、美濃路を通って尾越(現行地名は起)で木曽川を渡る下流コースは福島正則細川忠興黒田長政藤堂高虎らが進んだ。直政も下流コースに同行した。

f:id:hikonehistory:20181009183127p:plain地理院タイル(淡色地図)に文字を貼り込んだ

 21日、各勢とも清洲城を出発し、二方向にわかれて進軍を開始した。
 22日、直政の属する下流組は木曽川を渡って竹ヶ鼻城を落城させた。そうしたところ、上流組が敵の攻撃を受けながらも木曽川を渡り、岐阜城の北方へ陣を置いたことを聞いたので下流組も夜のうちに岐阜城下まで兵を進め、翌23日、一斉に攻撃して、その日のうちに岐阜城を落城させた。

 下流組の中での井伊隊の位置は、21日は先手の福島隊に続いて進軍していたが、22日の軍議で諸将から、全軍の後尾につくようにとの申し入れがあり、直政はそれに従っている。直政としては、福島を見張る位置にいたかったが、豊臣諸将とむやみに争うことは避けて、彼らの言い分を受け入れたのであろう。

 23日の岐阜城攻めは、福島ら下流組が城の正面にあたる追手口から攻め、池田ら上流組が搦手から攻撃した。

 井伊家では、後世、岐阜城攻めのことを「瑞龍寺城攻め」などと称しており(「侍中由緒帳」木俣清左衛門)、また、伊奈波神社裏の松田十太夫が守る砦を攻略したともいう。瑞龍寺は、現在も岐阜城のある金華山から続く山の南端の麓に建っているが、その背後にある山を瑞龍寺山という。つまり、南方から進軍していたことがわかる。

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 岐阜城攻めは、豊臣諸将が家康に味方して大坂方(石田三成大坂城の秀頼)と対決する姿勢を示すことに意味があり、徳川家臣である直政が先陣を切って戦う場ではなかった。直政自身も、自分は諸将の間を調整して彼らの戦功を家康に報告することだと認識している。
 それでも、井伊隊が金華山を取り囲む諸勢の一翼を担い、岐阜城を1日で落城させるのに貢献したのは間違いない。

  

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史料に登場する井伊直政の足跡 第6回長久手古戦場

前回より時代は遡りますが、天正12年(1584)、直政が侍大将となって初めての大きな戦い、長久手合戦での井伊隊の動きを探ります。

 

小牧・長久手の戦いで、井伊直政徳川家康の旗本隊の先鋒として布陣していた。家康は小牧山城に入っていたが、秀吉方の別働隊が三河・岡崎方面へ兵を動かしたのを察知した家康はこれを追撃する。

秀吉の別働隊は、池田恒興森長可堀秀政、三好秀次(のちの豊臣秀次)らである。その先鋒が三河へ向かう途中にある岩崎城を攻め落とし、休息していたところへ、徳川の先鋒隊が襲う。最後尾にいた三好隊は総崩れとなり、その次にいた堀秀政隊は戻って桧ヶ根で徳川方の大須賀康高榊原康政隊と戦う。先鋒の池田恒興森長可隊も兵を戻してきた。
家康隊は小幡城から東の山沿いを迂回して色金山に入り、そこから富士ヶ嶺に本陣を置く。井伊隊は家康隊の先鋒として軍勢を先導し、富士ヶ嶺の切通しから頭狭間へ向かい、敵方の池田恒興隊、森長可隊へ攻めかかった。このとき直政は敵の正面から攻めかかろうとしたが、配下の三科肥前と近藤秀用が南の山の中腹を廻って背後から攻めるよう進言した。直政はこれを承知しなかったため、近藤が直政の馬の口を向けてルートを変更させたという。

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    長久手市郷土資料館図録「小牧・長久手の戦い」より

 

この合戦の様子は、江戸時代の史料に多く記されている。それらを読んでいると地名が出てくるが、地図がないと復原しづらい。

そこで、地図を見ながら各軍勢の配置を考えていきたい。
家康が本陣を敷いた色金山と富士ヶ嶺(富士が根)は史跡として特定されている。富士が嶺は、家康が旗を立てたことから御旗山と呼ばれるようになったという。また、池田恒興森長可が討たれたとされる跡地には、それぞれ碑が建てられている。
 勝入塚:伝池田恒興戦死地跡
 武蔵塚:伝森長可戦死地跡
ただし、これらは江戸時代になって尾張藩士によって比定されて石碑が建てられ、史跡とされたものなので、推測を含んでいるという点に注意しなければならない。

 

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   地理院タイル(淡色地図)に文字を貼り込んだ

 

現在の地名や史跡からは、頭狭間の位置は特定できないが、
 頭狭間 仏ヶ根向方敵の右の方 池田父子
 烏狭間 同 向の方敵の左の方 森武蔵守
 仏ヶ根 此方の右 森長一  井伊兵部少輔直政
     此方の左 池田父子 御旗本衆       
   (「長久手戦話」、『長久手町史』資料編6より、ただし仏ヶ根の割書は『朝野旧聞裒藁』により修正した)
という記述がある。
仏が根は、現在の古戦場公園の北側に地名が残っている。古戦場公園は小高い地形であるが、「○が根」とは高台を示す地名なので、古戦場公園一帯の高台を指すとみられる。
その東の谷が頭狭間、西の谷が烏狭間だろう。狭間とは、はざま・谷間を意味し、谷間の地名に付けられる。

徳川は色金山から富士ヶ嶺に入ったが、ここに布陣することで南方から戻ってきた池田・森隊と、その先の桧ヶ根で戦う堀隊との間を分断できた。また、仏が根や富士ヶ嶺などの高台をいち早く確保することで優位な布陣となった。

井伊隊は池田隊の正面から攻めずに山の中腹から攻めたというが、この山は古戦場公園となっている仏が根のことだろう。戦いに慣れた直政配下の者は、高台に布陣するという戦のセオリーに従って仏が根に布陣し、そこから鉄砲を撃ち下ろす攻撃を仕掛けて勝利に至った。

このように見ると、長久手での勝利は徳川勢の進軍方向と布陣位置の判断のおかげであると言っても過言ではないだろう。その判断は、もちろん家康からの指示もあるだろうが、先鋒を任された井伊隊によるその場でのとっさの判断も大きかったといえよう。

 

現地に行ってみたが、御旗山から古戦場公園までわずか約1㎞しかなく、狭い範囲での戦いだったことがわかる。ただ、一帯は住宅開発されて新しい道が通り、その中に史跡が点在している状態であった。

ここに建てられている石碑は、江戸時代に造られたものであった。長久手での勝利は徳川にとって重要なものであり、長久手を領する尾張藩の学者らが軍記物などから史跡を特定し、石碑を立てて顕彰したのである。元になった話も徳川創業史として逸話などの創作が加わっており、100%信用できるという程ではない。史跡比定も地元の伝承などは参照にしているであろうが、石碑の建つ地点というより広くその一帯と考えておく方がよいだろう。

 

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勝入塚

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武蔵塚

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色金山

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御旗山 

 

 

史料に登場する井伊直政の足跡 第5回小田原の陣唯一の戦闘地「篠曲輪」

前回から随分時間が経ってしまいましたが、
引き続き、小田原の陣での井伊隊の動向について。

 

天正18年(1590)の小田原の陣。

豊臣政権によって動員された諸大名は小田原城を囲んだが、徳川勢は城の東、山王川と酒匂川の間に陣を敷いた。家康の陣は海岸から約1㎞、現在の寿町に置かれた。その地には「徳川家康陣地跡の碑」が建っている。

 

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井伊隊は徳川勢の中でも、もっとも海岸近くに布陣した。

小田原の陣では戦闘はほとんど行われなかったが、その中で唯一といっていい戦闘が6月22日の篠曲輪への夜襲であった。

篠曲輪は小田原城外郭にある山王口の外に築かれた出丸である。井伊隊は篠曲輪を落として旗を建てたが、北条方が城中より出てきて防戦し、味方の援護もなくそれ以上攻め入ることはできず、退いた。ただ、ここで曲輪を落として敵兵を討つという戦果を挙げたことは大きく、翌23日、一番首を挙げた近藤季用と長野業実は秀吉の本陣へ召し出され、秀吉に対面して褒美を下された。

北条氏は小田原城の周囲を総構で囲み、籠城して豊臣との戦いに挑んだ。山王口は総構の出入り口で、海岸線に沿った総構が折れ曲がる角に位置する。篠曲輪は山王口の外にあったということなので、総構えと山王川の間に位置していたと考えられる。

 

そこで現地に行ってみた。

付近には江戸口見附の一里塚がある。国道の広い道沿いにあるが、それもそのはず、東海道が今の国道1号であり、東海道が江戸方面から小田原城下に入る入り口が見附である。

北条氏時代の遺構としては、近くに総構の一部である蓮上院土塁が現存している。土塁の外側には堀が掘られていたはずである。

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蓮上院土塁の延長線上をたどり山王口付近に行くと、北条稲荷神社があった。海岸線と平行に築かれた総構の跡とみられる直線の道筋が突き当たった三角地にある。国道側(写真左側)が低くなっており、総構の痕跡と思われる。

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↑北条稲荷神社

 

引き続き篠曲輪跡をめざす。
山王川沿いに山王神社がある。その一角に「旧山王原村の図」という案内板が建てられていた。これを参考にして考えると、当時の街道は山王口から出ており、東海道(現在の国道1号)よりも数十メートル海岸川を通っていた。この道沿いには、山王川、山王神社の裏から山王川に流れ込む支流,、総構の堀と、三方を水路で囲まれた一帯があったことになる。このあたりが山王口の外に築かれた篠曲輪ではないだろうか。

 

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左:山王神社内の案内板  右:山王川から山王神社方面