関ヶ原合戦図屏風[井伊家伝来本]の構図 その4
関ヶ原合戦図屏風の構図を読み解く 第4弾。今回が最終回。5扇と6扇です。
*屏風は1曲ごとに右から1扇・2扇とかぞえます。
合戦図はこちらからご覧ください
関ヶ原合戦図(井伊家伝来資料) | 彦根城博物館|Hikone Castle Museum|滋賀県彦根市金亀町にある博物館
*図の中には付紙で人名などが記されています。その人名は赤字で示します。
5扇上から(つながりのある話は6扇のものも含む):
① 大谷吉隆本陣
敦賀城主で石田三成の盟友として関ヶ原合戦に出陣して敗北した大谷吉継の本陣。大谷の名前は一般的には「吉継」として知られるが、関ヶ原合戦関係の軍記物などでは「大谷吉隆」と表記されており、この合戦図の付紙では同じ音の「大谷義隆」と記されている。
*関ヶ原合戦図は、軍記物に描かれた「大谷吉隆」を描いていると考えるので、以下の文中でも「大谷吉隆」と記すことにする。
幔幕を張った中に、大谷主従が描かれている。吉隆は病気のため甲冑を身につけることはできず、小袖に羽織、頭巾という姿で槍を杖のように立てて座っている。
吉隆の前には、敵の首が置かれている。「関原軍記大成」「常山紀談」には、平塚為広や吉隆家臣の湯浅五助が大谷本陣に敵首を届けたという記載があるため、彼らのいずれかがもたらした敵首を描いたと思われる。
② 畦道に腰を掛けている平塚為広
美濃垂井城主の平塚為広は、大谷吉隆隊に属し、動けない吉隆に代わって軍を指揮した。「関原軍記大成」によると、小早川秀秋の近臣横田小半助の首を取って大谷本陣へ送った後、負傷して弱ってきたため畦に腰掛けていたところ、東軍に寝返った小川祐忠の家人樫井大兵衛がやってきて突き合いになった。樫井に突き伏せられた平塚は、「汝が重宝にせよ」と述べて十文字の槍を授けて首を取らせたという。
この話を連想させるように、平塚は十文字の槍を持ち、疲れたように畦道に腰を掛けている。また、平塚の方へ駆けゆく樫井大兵衛の姿が6扇右に描かれている。樫井の左側の山裾には小川隊の白地に三つ巴の旗が建っている。小川家臣の樫井がここから出てきたことを示しているのであろう。
③ 湯浅五介を討つ藤堂仁右衛門
平塚為広の下で、槍を刺されているのは、大谷隊の先鋒隊長の湯浅五介。刺したのはその左に立っている藤堂仁右衛門。白地に朱色の丸三つを描いた幟旗は5扇中段や下段にも描かれているが、藤堂高虎隊をあらわす。仁右衛門も藤堂高虎の家臣。仁右衛門が湯浅五介を討つ話も「関原軍記大成」に出てくる。
④ 奥平藤兵衛の討死
奥平藤兵衛は、奥平貞勝の5男。「関原軍記大成」によると、家康から小早川方へ目付として遣わされていたが、小早川勢が西軍を裏切って大谷勢を攻め始めると、藤兵衛は小早川勢と一緒に戦い敵首を取ったが、最終的に討死したという。合戦図では、敵から鉄砲を撃ち込まれて落馬する藤兵衛の姿が描かれている。
⑤ 織田長孝・津田信成と戸田重政の討ち合い
東軍の津田信成(山城三牧城主)と西軍・大谷勢の先鋒にあった戸田重政(越前安居城主)の一騎討ちが決着がつかずにしばらく経ったところ、織田長孝が加勢して織田の家人山崎源太郎が戸田の首を取った。戸田の家臣鶴見金左衛門は織田に攻めかかったが討ち取られてしまったという(「関原軍記大成」)。
合戦図では、5扇左に敵と戦う織田長高、6扇右には馬に乗って織田の方に駆けてゆく戸田重政や鶴見金左衛門、津田信成が描かれている。津田は織田氏と同族ということなので、織田氏と同じ朱地に木瓜の旗指物を指している。
⑥ 宇喜多隊の浅井与九郎と浮田太郎左衛門
5扇中程右には、浅井与九郎や浮田太郎左衛門の人名がある。両名とも宇喜多秀家の家臣である。
⑦ 左軍の各隊と本陣
5扇下方には、左の方角に向けて進軍する藤堂高虎隊と山内一豊隊が描かれている。藤堂隊は白地に朱色丸3つの幟旗を掲げており、その左、黒地に柏三葉紋の旗が山内隊である。山内隊の先手は6扇に描かれている。
その下には、朱地に木瓜の織田長益隊、白地に朱色丸3つの藤堂高虎隊、白地に黒丸3つの寺沢広高隊の旗が木々の間に建っている様子が描かれている。いずれもここには人物は描かれておらず、本陣を示しているのであろう。
第6扇上から:
⑧ 山中台
大谷吉隆が前日まで布陣していた山中台には、大谷の幔幕と幟旗が描かれている。
⑨ 大谷隊と小早川隊の交戦
東軍へ寝返った小早川隊の稲葉内匠と、大谷方の大谷吉勝や木下頼継らが戦っている。その左の山すそには、脇坂安治隊(朱地に違い輪の幟旗)、京極高知隊(黒地に一つ目の幟旗、四つ目の旗指物)、小早川秀秋隊(白地に違い鎌の幟旗)がいる。
小早川隊の先鋒隊長松野主馬は山すそから戦場を見ている。これは、松野は小早川隊が東軍へ寝返ったことに納得できなかったため、西軍と戦うことはせず、裏切りの戦いを見物していたという逸話を元にしていると思われる。
小早川家老の平岡石見は、戦況を報告しようと本陣に戻る様子が描かれている。
その右方でも、小早川隊の瀧川内記、笹地兵庫が戦う様子が描かれている。
⑩ 松尾山周辺の各勢本陣
6扇下方に描かれる山の中央が、小早川秀秋の本陣を敷いた松尾山である。付紙には「金吾秀秋」と記されている。その左側には、東軍に寝返った小川祐忠・脇坂安治・朽木元綱の本陣や、東軍の京極高知の陣所が旗印により描かれている。
関ヶ原合戦図屏風[井伊家伝来本]の構図 その3
関ヶ原合戦図屏風の構図を読み解く 第三弾、今回は4扇です。
*屏風は1曲ごとに右から1扇・2扇とかぞえます。
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関ヶ原合戦図(井伊家伝来資料) | 彦根城博物館|Hikone Castle Museum|滋賀県彦根市金亀町にある博物館
*図の中には付紙で人名などが記されています。その人名は赤字で示します。
4扇上から:
① 上部には、山肌が青く彩色された特徴的な形の伊吹山が描かれている。関ヶ原の北西の方角に位置し、美濃と近江の境にある霊峰として知られていた。
② 上部左、青地に「兒」字の幟旗を掲げるのは、宇喜多秀家隊である。秀家は白馬の脇に立ち、戦場の方を見ている。戦況が悪化しているため退却しようとして馬を牽いてきたところだろうか。宇喜多隊は、その下部で敵と戦っている。
③ 上部中央には、黒地に「丸に十字」紋の幔幕が張られている。島津隊の本陣を示す。島津隊は西軍に属していたが、関ヶ原合戦では積極的な戦闘はせず、西軍の敗色が濃くなると戦場から逃走した。合戦図では、大将島津義弘、その甥の島津豊久主従が本陣から右の方へ駆け出している姿をとらえている。島津隊の先頭は3扇に描かれている。
④ 中央には、関ヶ原盆地の中央で東西両軍が入り乱れて戦闘している様子が描かれている。右側に位置する東軍は福島正則隊が主力で、その家臣の松下下総(実際は松田)、大崎玄蕃、星野又八、長尾隼人、林亀之介、梶田出雲、吉村又兵衛、武藤修理、福島丹波、可児才蔵、仙石但馬、福島正勝(正則嫡子の正頼のことか)らが描かれている。左側は宇喜多隊が主力で、明石掃部、長船吉兵衛、本多左兵衛、延原土佐、高知七郎左衛門らがいる。白馬に乗る高知が槍を手に攻めかかっている相手は、豊臣秀頼側近であった大野修理(治長)である。
大野修理が宇喜多隊の鉄砲頭である高知(香地とも)七郎左衛門と戦っているのは、「関原軍記大成」などの逸話に見られる。そこでは、大野が高知を馬上から突き落とし、大野の家来の米村権左衛門が高知を切りつけてその首を取ったが、その姓名がわからなかったので首に掛けていた数珠を後日の証しとして持ち帰ったとされている。
⑤ 下部には中央に「遊軍」の付紙文字があり、その周辺には主に幟旗によって東軍の遊軍隊が布陣している様を描いている。
右側には、紺地に白丸を九個並べた幟旗の隊として「小出秀家」の付紙があり、中央には白黒を斜めで切り替えた幟旗の「亀井茲矩」隊が描かれる。ただ、両家の旗印を「諸将旌旗図」により確認すると、旗印の図柄と家が逆であることが判明する。小出と亀井の人名貼紙を入れ違えて貼ってしまったようだ。左側には上から、5扇にかけて朱地に木瓜の幟旗(人名貼紙はないが、旗印から織田家と考えられる)、稲葉貞通隊(黒地に白丸の旗)、遠藤慶隆隊(白地に朱丸の旗)、蜂須賀至鎮隊(白地に卍の旗)の各隊が、幟旗が立ち並ぶ様子で示されている。
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関ヶ原合戦図屏風[井伊家伝来本]の構図 その2
前回に引き続き、関ヶ原合戦図屏風のどこに何が書かれているのか見ていきましょう。
今回は3扇です。
*屏風は1曲ごとに右から1扇・2扇とかぞえます。
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関ヶ原合戦図(井伊家伝来資料) | 彦根城博物館|Hikone Castle Museum|滋賀県彦根市金亀町にある博物館
*図の中には付紙で人名などが記されています。その人名は赤字で示します。
上から:
① 石田三成本陣 白地に「大一大万大吉」の幔幕が張られており、その内側が本陣ということを示している。
② その下、柵を越えて本陣方面に戻ろうとする石田隊。「大一大万大吉」の旗を掲げているのが石田隊。貼紙の人名では、森九兵衛、北川平左衛門、大場土佐、大山伯耆が示されている。
③ ②の下、右側では島新吉と藤堂玄蕃の組討が描かれている。
「関原軍記大成」には、島新吉(島左近の嫡子)と藤堂玄蕃(藤堂高虎の甥)が組み合いになり馬から落ち、新吉が玄蕃の首を取った。その後すぐに玄蕃の小姓である山本平三郎が新吉を刺してその首をとった、とある。
この逸話の様子が合戦図に描かれている。
④ ③の左、山の麓には小西行長の本陣がある。旗印は3本の山道(MまたはWを3本重ねたもの)。幔幕の内側には行長が左方向へ退却しようとする姿や、本陣方向へ戻ろうとする侍一行の姿がある。
⑤ 小西行長隊から山を隔てた下側では、島津隊の先手が鉄砲を撃ちかけている。その指揮をするのは島津家老の阿多長寿院。島津隊は、勝敗が決すると敵中突破して戦場から去ったが、その際島津隊の鉄砲が井伊直政にも当り、直政が負傷したことが知られている。これを推測させるよう、井伊隊の先手へ向けて鉄砲が撃ちかけられている。
⑥ 島津隊の鉄砲の先にいる朱色の旗指物の部隊が井伊直政隊。八田金十郎がまっさきに敵方面へ駆け出している。
⑦中央右、本の字の旗指物は本多忠勝主従。忠勝は落馬する様子が描かれ、そこに向かって家臣の梶金平が馬を牽いている。白馬に乗っているのは忠勝2男の本多忠朝。周辺では本多家臣の加藤忠左衛門、山口主水、吉原新介が戦っている。
⑧本多隊の下には黄地に葵紋の旗を掲げた松平忠吉(徳川家康4男)とその家臣の嶋沢九兵衛、阿知羽角介がいる。また、忠吉と組み合っている相手は島津義弘家臣の松浦三郎兵衛である。両者の組み討ちは「関原軍記大成」に逸話として収められている。
⑨松平忠吉の下には、松倉重政主従が描かれている。従者が重ね笠の馬印を掲げている。松倉は井伊直政隊に属して戦ったと伝わる。
⑩3扇の下段には白地に桐紋の幔幕が張られている。これは福島正則隊の本陣をあらわす。ここから左上方向に桐紋に山道の旗印を持つ福島隊が広がっている。先手は4扇に描かれているが、大将の福島正則の姿は3扇中央下左側に大旗や銀色の芭蕉葉の馬印とともに描かれている。
関ヶ原合戦図屏風[井伊家伝来本]の構図 その1
関ヶ原合戦図屏風を楽しむには、まず、どこに何が描かれているのかを知ること。
順番に見ていきましょう。
今回は1扇と2扇です。
*屏風は1曲ごとに右から1扇・2扇とかぞえます。
合戦図はこちらからご覧ください
図の中には付紙で人名などが記されています。その人名は赤字で示します。ただし、文字の書き誤りは修正しました。[ ]は人名を比定・訂正したものです。
上から:
① 山の麓から狼煙があがる
② 2扇上、山上から黒田長政隊(白石荘兵衛、菅六之介)が鉄砲を撃ち、その攻撃を受けた石田三成隊(舞兵庫、林平介、嶋左近)は本陣方面(左方向)へ退く。
③ ②の下、敵味方入り乱れて組み討ちする様子
付紙の人名
蒲生大膳、浅香荘次郎、蒲生備中(石田三成家臣)
織田長益と従者の千賀又吉、千賀又蔵
稲葉助之進(宇喜多秀家家臣)
田辺甚兵衛(田中吉政家臣)
④ ③の方向へ兵を進める黒田長政隊、それに引き続く細川忠興隊(1扇左)や古田正重(古田織部正重然のことか)、竹中重門、戸川逵安の隊。
付紙の人名
後藤又兵衛(黒田長政家臣)
沢村才八(細川忠興家臣)
⑤ 1扇から2扇にかけて、幔幕に囲まれた徳川家康本陣
・本陣で家康の傍に控える岡江雪・戸田氏鉄・南光坊
・家康へ報告する御使番
*家康本人はあえて描かず、使番を描いて家康の存在を示している。
・本陣の入口付近には、出ていく使番や討ち取った敵首を報告する兼松又四郎
⑥ 本陣の幔幕の外に控える酒井家次隊、生駒一正隊、本多康重隊(本多成重のことか)、大須賀忠政隊
⑦ 2扇下から左上方向に向けて駆け上がり島津隊を追撃しようとする井伊隊
付紙の人名
井伊直政、岡本半介、脇某[五右衛門]、使番、広瀬美濃、向山内記、犬塚某[求之助]、木俣右京[土佐]
*その他の家臣は旗指物に氏名記載あり
⑧ 井伊隊、松平忠吉隊、本多忠興隊、桑山一直隊
図版と並べるとわかりやすいのは承知していますが、権利関係の都合により断念。
書籍化すればいいのですが。どこか出していただける出版社さんありませんか(笑)
関ヶ原合戦図屏風に関する発表済み文章
関ヶ原合戦図屏風については、2003年に論文を発表し、その成果を展覧会や一般向けの文章で紹介してきました。
これまで発表した文章をここでまとめておきます。
論文
「関ヶ原合戦図屏風の図像とその展開」『彦根城博物館研究紀要』14号 2003年
展覧会
彦根城博物館テーマ展「よみがえる関ヶ原合戦 -関ヶ原合戦図を読む-」2010年10月29日~11月30日
展覧会図録です。
2003年頃、常設展示でも紹介しているはずですが、データが手元にありません。
一般向け文章
「描き変えられた関ヶ原合戦図」(「彦根城博物館だより」61 2003年6月1日号)
「旗印から読む関ヶ原合戦図」(「広報ひこね」2003年11月1日号)
http://www.city.hikone.shiga.jp/cmsfiles/contents/0000003/3669/20031101KH03.pdf
「創作された旗印~関ヶ原合戦図の史実とフィクション」(「広報ひこね」2010年11月1日号)
http://www.city.hikone.shiga.jp/cmsfiles/contents/0000003/3742/20101101KH03.pdf
「二つの関ヶ原合戦図~制作意図を読み解く」(「広報ひこね」2013年7月1日号)
https://www.city.hikone.shiga.jp/cmsfiles/contents/0000004/4216/20130701KH09.pdf
関連グッズ
2010年の展覧会にあわせて作ったものです。
現在、彦根城博物館ミュージアムショップで購入できるのはポスターのみ。研究紀要と展覧会図録は完売しています。(2018年3月現在)
関ヶ原合戦図屏風は観て楽しみたい
先週末の夜、テレビ番組で「関ヶ原合戦図屏風」が使われているのを見つけました。
「嵐にしやがれ」3月17日放送の中、将棋の羽生さんと嵐メンバーとの対決で、関ヶ原合戦図屏風の複製が背景に立てかけられていました。
説明などまったくなかったので、井伊家伝来本(彦根城博物館所蔵)だと気づく人はほとんどいないと思いますが・・・。
関ヶ原合戦を描いた絵画は何種類もあります。
十数年前から戦国合戦図について研究が進み、一つの合戦でも色々なパターンの作品が見つかりました。関ヶ原合戦図を描いた作品も、何系統も現存していることがわかってきました。
絵画作品として評価されている関ヶ原合戦図は、
通称「津軽屏風」と呼ばれる八曲一双の大きな屏風。現存する関ヶ原合戦図のうちもっとも古く、家康が戦勝記念に描かせたと伝えるもので、重要文化財に指定されている作品。大坂歴史博物館所蔵。
が有名です。
大阪歴史博物館:第26回特集展示「前田コレクション名品撰-重要文化財「関ヶ原合戦図屏風」と工芸の優品-」
ただ、有名な部将たちが東西両軍にわかれて関ヶ原でバトルを繰り広げた様子がわかりやすく描かれているのは、井伊家に伝来した関ヶ原合戦図でしょう。
この作品は古くから知られており、社会の教科書や資料集をはじめとしてさまざまな書籍にも掲載されているので、見たことのある方は多いはずです。
関ヶ原合戦図 | 彦根城博物館|Hikone Castle Museum|滋賀県彦根市金亀町にある博物館
この関ヶ原合戦図が受け入れられたのは、単に古くから知られているだけではなく、観ていて楽しいからだと思います。
関ヶ原合戦では、多くの大名・領主が配下の者を統率して軍事組織を結成し、戦いました。
この合戦図は、関ヶ原で戦ったほとんどの部隊を描き込んでいます。そのため、どこにどの部隊がいるのか、どの隊と戦っているのか、あるいはどのような動きをしているのか探して楽しむことができます。
おそらく作者自身がそのように意識して描いたと考えられます。
実は、井伊家伝来本はオリジナル作品ではなく、写しです。同様の構図をもつ写しの作品には
- 井伊家家老の木俣家に伝来した屏風(彦根城博物館所蔵)
- 関ケ原町歴史民俗資料館所蔵
などがあります。
オリジナルは現存していませんが、狩野梅春という幕末の絵師が描いたようです。
このこと、つまり幕末の絵師が同時代の読者を想定して描いた作品であることを念頭において作品を見てみると、興味深いことがわかってきます。当時と私たちとでは、関ヶ原合戦について知っている歴史知識が異なっているからです。
江戸時代の人は関ヶ原合戦についてどのような情報を持っていたのかを知ると、この作品をいっそう楽しむことができます。
詳しくは、
野田浩子「関ヶ原合戦図屏風の図像とその展開」(『彦根城博物館研究紀要』14号、2003年)に記しています。
次回以降、楽しさを少し紹介しましょう。
この関ヶ原合戦図屏風は、観ていて楽しい作品です。テレビ番組では、相応の利用料金を支払って使用しているはずなので、背景として使うなら他にふさわしい絵画があるのでは? と思って見ていました。