彦根歴史研究の部屋

彦根や井伊家の歴史について、これまで発表してきた私見の紹介・補足説明・修正など。

井伊直政家臣列伝 その25 遠江・駿河・三河出身の諸士

これまでみてきた家臣以外で、井伊氏の出身地である遠江やその周辺の駿河三河出身の者をまとめて示しておく。戦国時代は今川の領国であった地域であり、ほとんどが今川配下にあったという由緒をもつ。

 

芦名元勝
 芦名助兵衛元勝は、「貞享異譜」によると、生国は駿河で今川家に奉公していたが、跡目不足につき今川家を退き浪人していたところ、箕輪で井伊家へ召し出されたという。筋奉行のほか、西郷伊与の代わりに町奉行を務め、関ヶ原合戦時には高崎の留守居を務めたとある。関ヶ原へは息子の作十郎勝秀が出陣している。勝秀はそれ以前に小姓として召し出されていた。
 慶長七年(1602)の分限帳では、芦名助兵衛は1000石取、息子の作十郎は「御供之衆」として400石取と記される。
 また、直勝に付いて安中へ移った家臣の中に芦名勘解由がいる。

 

小野田為盛
 「由緒帳」「貞享異譜」によると、小野田彦右衛門為盛は三河小野田の出身で、今川家被官の安達讃岐守の子という。引馬城主飯尾豊前守の配下にあったが、引馬城の内乱の時に為盛の働きで家康方が引馬城を手に入れることができたとして、為盛は旗本へ加えられた。その後、天正12年(1584)の前に井伊直政のもとへ付けられたという。
 三河国小野田(豊橋市)は、中世には賀茂社領の小野田庄があった地であり、為盛は荘官の一族かもしれない。
 引馬城の内乱とは、桶狭間の合戦後に三河遠江の諸士が今川から離反する中で、引馬城主飯尾氏が今川氏真により永禄8年(1565)に討たれ、城に残った配下の者が徳川派と武田派に分かれて対立したことを指すのであろう。
 天正12年に井伊直政へ付けられたということは、長久手合戦前であり、井伊隊の創設に伴い家康が付けた者の一人ということができる。
 箕輪城時代に母衣役、文禄2年(1593)には足軽20人の大将に取り立てられ、関ヶ原合戦に臨んだ。
 慶長七年(1602)の分限帳では、小野田小一郎として700石取と記される。

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犬塚正長
 犬塚求之介正長は、「由緒帳」「貞享異譜」によると、生国は三河で、父は旗本の犬塚太郎左衛門正忠、兄平右衛門忠次がその跡を継いで旗本の家として存続している。正長自身は箕輪で召し出されて小姓・小納戸役を務めた。関ヶ原合戦時には武功を挙げた褒美として、直政から緋縅の具足を拝領したという。
 兄犬塚忠次は旗本で、『寛政重修諸家譜』にも記される。普請奉行を務め、彦根城築城時にもたずさわったとある。
 慶長七年(1602)の分限帳では、犬塚三四郎として700石取と記される。

海老江里勝
 「貞享異譜」によると、海老江勝右衛門里勝は駿河の生まれで今川家に仕官していたが、親跡目不足により今川を退き、天正12年(1584)より横須賀城大須賀忠政に奉公していた。その後旗本に召し寄せられ、徳川直臣として長久手陣より奥州九戸陣まで出陣。その後、高崎在城時に井伊家に付けられ、30人組の足軽大将となり、関ヶ原陣に出陣後、褒美として100石加増されたほか、十文字鎗を拝領したという。
 今川家臣としての海老江氏は、今川氏真が武田・徳川に敗れて大名としての立場を失った後も従った海老江弥三郎がいる。弥三郎は天正5年までは氏真のもとにいたが、このとき残っていた家臣のほとんどに暇が与えられており、弥三郎も氏真のもとを去ったと思われる。弥三郎と里勝の関係は不明であるが、一族であろう。
 里勝の動向は、「貞享異譜」の年代は不正確であるが、今川を離れて大須賀忠政、徳川直臣を経て井伊直政に付けられるという過程を経たことは間違いないだろう。
 慶長七年(1602)の分限帳では、海老江庄右衛門として600石取と記される。


斎藤昌形
 斎藤昌形は、はじめ豊前、のち半兵衛と称した。
 駿河上井出村出身で、武田配下の小幡衆で、武田氏滅亡後、井伊直政の家臣となり、近習を務めたという。
 天正10年(1582)の天正壬午の乱の中で、徳川方に帰属した武田旧臣に対して井伊直政が奉者となって本領安堵状が出されているが、斎藤半兵衛へ駿州上井出を安堵したものがある。本領はもともと今川の領国であるため、元は今川配下にあり、その滅亡後に武田配下となったと考えられる。
 慶長七年(1602)の分限帳では、斎藤半兵衛は「御供之衆」として600石取と記される。

 

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朝比奈泰広
 朝比奈藤右衛門泰広は、駿河の今川氏に奉公し、今川滅亡後は小田原の松田尾張のところにおり、井伊家へは上野箕輪時代に召し出された。諸礼に通じた人物であったという。
 朝比奈氏は今川家臣で掛川城主の朝比奈泰能、泰朝らがよく知られている。泰能は井伊直親を討ったことで井伊家の歴史に名前が出てくる。そのほかにも朝比奈氏は今川配下に多くの一族がおり、泰広の父もその一人と思われるが、彦根藩関係の記録には泰広の父の名前を示したものはなく、朝比奈一族の中での関係はわからない。今川氏滅亡後に仕えた松田尾張は北条氏の家臣で、小田原衆筆頭の松田憲秀のこと。小田原陣で北条氏が滅亡した後に井伊直政の配下に入った。
 慶長七年(1602)の分限帳では、朝比奈藤右衛門は「御供之衆」として500石取と記される。


勝歳重
 勝五兵衛歳重は、生国は三河で、足助殿のもとにあり、足助殿死去の後、家中は残らず家康へ召し出されたが、歳久は井伊直政が存じていたので箕輪城時代に召し出したという。使番を務め、関ヶ原陣前には伊達政宗のもとへ使者を務め、合戦後には島津氏との交渉の使者として薩摩へ遣わされている。
 足助殿とは、足助城主であった鈴木氏のことであろうか。いずれにせよ、勝氏の出身は足助周辺であろう。
 慶長七年(1602)の分限帳では、勝五兵衛は「御供之衆」として350石取と記される。


渥美広勝
 「貞享異譜」によると渥美与五左衛門広勝は生国は三河で、横須賀城大須賀出羽守の配下にいたが、国替えの時に暇を乞い浪人した。その後上州高崎にて直政に召し出されたという。
 三河の渥美氏といえば、家康家臣の渥美友勝、大須賀康高配下の渥美勝吉などがいる。広勝もその一族であろう。
 慶長七年(1602)の分限帳では、渥美与五左衛門として300石取と記される。

 

加藤高正
 加藤権太夫高正は、「貞享異譜」によると、生国は駿河出今川家に奉公していた。先に井伊家に仕えていた三浦五郎右衛門高連の弟で、故あって加藤と苗字を改めていたという。高連は三浦十左衛門安久の弟ということなので、高正は両名の弟となる。高正も兄のつながりで井伊家へ召し出されたのであろう。
 慶長七年(1602)の分限帳では、加藤権太夫は確認できない。当時は別の名を称しておりのちに権太夫と改称したと思われる。「由緒帳」では、高崎での召出時に500石、「貞享異譜」では300石と記す。
 大坂冬・夏の陣ではいずれも鉄砲足軽大将を務めている。


匂坂長知
 「由緒帳」「貞享異譜」によると、匂坂作太夫長知は三河岡崎の生まれで、匂坂式部の二男。幼少期より家康の小姓として仕え、その後、家康により直政へ付けられたという。直政のもとでは側役を務めていたが、「由緒帳」には、高崎時代、関所に入り込んだ者を仕留めた際に手傷を負い、不自由となったため、務めがたいとして出仕を離れたとある。一方、「貞享異譜」には関ヶ原陣への出陣、大坂陣では老年ゆえ城代加役を務めたとする。
 匂坂氏といえば、遠江豊田郡匂坂(磐田市)を本拠とする一族が知られる。今川配下にあったが、家康の遠江侵攻に際して徳川配下となっている。その末裔は幕臣となっているが、「寛政重修諸家譜」には匂坂式部は確認できない。それでも、長知が家康小姓となっていることから、この一族であることは間違いないだろう。
 また、永禄11年(1568)の井伊谷徳政にも匂坂氏が登場する。徳政実行に向けて駿府へ赴き今川方と交渉した人物が匂坂直興で、彼は井伊谷に何らかの権益を有していたことがわかる。

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 宮崎安実・安長
 宮崎十右衛門安実は、はじめ十内とも称していた。遠江横須賀城大須賀康高に仕えていたが、国替えのときにから暇乞いして浪人していた。安実は鳴海城主渥美大夫の惣領聟であった縁で直政が知っており、牢人であれば井伊家へ来るようにという直政からの誘いにより、召し出されたという。その息子の甚太夫(はじめ与一郎と称す)安長も、関ヶ原陣には父とともに出陣している。
 慶長七年(1602)の分限帳では、宮崎与一郎が100石取と記され、「切符衆」として十右衛門が25石下されている。

 

  

 参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
 『愛知県の地名』(平凡社
『戦国人名辞典』(吉川弘文館
 
  典拠史料
『新修彦根市史』6巻
『侍中由緒帳』
「貞享異譜」「井伊年譜」(彦根城博物館所蔵、未刊)
 
 

井伊直政家臣列伝 その24 横地吉晴 ~遠江の名門から北条重臣へ~ 

横地氏の出自

 横地吉晴は、元は北条氏家臣で、北条氏滅亡後に井伊直政の家臣となった人物である。
 「貞享異譜」には、吉晴は武蔵国八幡山城主横地監物吉勝の長男で、幼名は与三郎、本国は遠江国と記す。

 ここで遠江国を本国と記したのは、先祖を遠江武家横地氏とするためであろう。遠江の横地氏といえば、井伊氏・勝間田氏とともに『保元物語』にも登場する遠江の鎌倉御家人であった名族で、横地城を本拠とした。近隣の勝間田氏と同族とされ、滅亡したのも勝間田氏と同様、応仁文明の乱の余波で駿河の今川義忠が遠江に出陣してきたのに応戦してのことで、文明7年(1475)頃に滅亡したとされる。滅亡後、遠江を離れて関東へ移ったのであろう。

 また、「貞享異譜」には、関東管領上杉家に仕官して家老職を務め、天正15年(1587)に浪人してそれ以降に北条家に奉公、武蔵鉢形衆とある。
 しかし、横地氏が北条氏の家臣となったのはそれ以前からである。北条配下としての横地氏の動向は諸史料から確認できる。永禄年間(1558~70)、北条氏邦鉢形城主となると近辺の城はその配下に属し、八幡山城(埼玉県本庄市)には氏邦家臣の横地左近忠春(吉春)が在城したという。ついで、天正年間(1573~92)、北条氏照八王子城を築いた際には、横地吉信と息子の与三郎が関わっている。吉信は氏照の重臣でその奉行衆の筆頭、その子の与三郎も氏照の奉行人で、小田原の陣の際には父子が八王子城を守備して討死したという。

 なお、上杉家への仕官という由緒については、北条氏が勢力を広げる前、戦国時代初期の関東は上杉氏が関東管領の家柄として勢力を持っていたことから、遠江での滅亡後間もなく関東にやってきたのであれば、上杉氏の配下に属していてもおかしくない。

 

 小田原の陣の時点で吉信が横地監物丞を称していることから、吉晴の父監物とは吉信のことと考えていいのではないだろうか。また、吉信の息子が称していた与三郎という通称は、吉晴やその子孫である彦根藩士横地家でも受け継がれている。小田原の陣を生き延びた吉晴が跡継ぎの通称である与三郎を称して井伊家に仕えたのであろう。

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横地吉晴の井伊家出仕 

 吉晴が井伊家に召し出されたのは、「貞享異譜」には小田原陣後、高崎においてとある。ただし、天正19年の九戸の陣に出陣しているということなので、天正18年から19年、箕輪時代に召し出されたということになる。当初700石を拝領し、関ヶ原合戦の後に300石加増を受けた。慶長7年(1602)の分限帳では「横地監物」は1000石取と記されている。大坂冬の陣では軍監と武者奉行を務め、夏の陣でも軍監を務めている。陣後、中老格となったが、翌元和2年(1616)に死去した。

 同家の家格としては、元禄12年(1699)、3代目のときに大身の列に仰せ付けられ、4代目から7代目までは家老役を務めている。8代目義致は藩主井伊直中の息男で、横地家の養子となった。同様に藩主子弟を養子として迎え入れた家臣の家は、木俣、中野、奥山ら井伊家と親族関係にあった重臣家に限られている。そのような中、横地家が藩主子弟の養子先となったのは、同家が遠江の古くからの名族と認識されていたからであろう。

 

  
 参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
 『戦国人名辞典』(吉川弘文館
 
  典拠史料
『新修彦根市史』6巻
『侍中由緒帳』2
「貞享異譜」「井伊年譜」(彦根城博物館所蔵、未刊)
 
 

井伊直政家臣列伝 その23 庵原朝昌 ~今川譜代の名門~ 

庵原氏の出自

 庵原氏の出身は駿河国庵原郡庵原郷という。古代以来ある郷名を名字の地としており、詳細はわからないが古くからの地域の名族と推定されている。戦国時代には大名今川氏の配下にあり、「今川仮名目録」に庵原周防守の名がみえる。家臣が知行を担保として借銭したが返済できなくなり今川氏へ救済を求めることを禁じる条文で、明応年間(1492~1501)の庵原周防守は譜代の忠功のため特段に肩代わりしたと記す。ここから、庵原氏が今川氏にとって重要な譜代の家臣であったことが読み取れる。また、公家の山科言継の日記『言継卿記』には、弘治年間(1555~1558)に駿府に下向していた言継が庵原左衛門尉と交流していたことが記される。

 庵原一族からは著名人物が出ている。駿河臨済寺の住持太原崇孚である。雪斎という名の方が知られており、義元の養育係から補佐役となりその政務を支えた人物である。雪斎の父は庵原氏という。

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井伊家重臣

 庵原朝昌は、「貞享異譜」によると、庵原左衛門尉朝綱の嫡子で、駿河庵原庄に代々居住していた家系という。先祖には庵原安房守、左衛門尉朝雅、朝満などがいたと記すので、同家の系図にこのような先祖の名が記されていたのであろう。朝昌が父から家督相続されたのがいまだ今川氏の時代ということなので、弘治年間に山科言継と交流していた左衛門尉は朝昌の父と考えてよいだろう。
 朝昌は当初今川氏に仕え、武功も挙げていたが、その後今川氏から離れて武田氏配下に入ったという。「貞享異譜」はその理由を武功を挙げたのに知行不足のためとして朝昌が自らの意志で離反したように記すが、実際には、永禄12年に今川氏真が武田氏からの攻撃に敗北し、駿河が武田氏の支配下に入ったため、駿河の領主は武田配下となったということであろう。

 天正10年(1582)の武田氏滅亡後、駿河は徳川の領地となり、地元の武士は次々と徳川と主従関係を結びその配下に入った。そのような頃、朝昌は豊臣秀吉家臣の戸田氏繁のもとにおり、朝鮮出兵に従軍し、慶長元年(1596)に津田信成(秀吉家臣)の仲介によって井伊直政に召し出され、知行1500石を下されたという。ところが、間もなく知行が少ないとして井伊家を去り、牢人していたが、松平忠吉徳川家康四男、直政の娘聟)の取り持ちにより、直政没後に井伊家に帰参し、500石加増の2000石を下された。

 このように、朝昌自身は望んで直政の家臣となろうとした訳ではないが、周囲が働きかけて井伊家重臣に収まったようである。その要因は明らかではないが、駿河の名族であったことと無関係ではないだろう。井伊家でも当初からそのように処遇しようとしていたことがうかがえる。

 朝昌の妻は新野左馬助の娘で、その姉妹は木俣・三浦・戸塚など井伊家重臣の妻となっている。彼女は元々北条家臣の狩野主膳正に嫁しており、狩野との間に6人の子どもがいた。北条氏の滅亡後、子どもとともに姉の嫁ぎ先である木俣守勝のもとに身を寄せ、その後朝昌に嫁いだ。時期的に考えて、小田原陣後に井伊家の配下に入ってきた朝昌を井伊家重臣に処遇しようと考えての縁組みと考えられる。しかし、朝昌はその処遇に満足できず井伊家を離れたのである。

 朝昌は、出自の良さからくるプライドが強かったように思える。武田氏滅亡後、駿河を領した徳川の配下に入らなかったことや、一旦井伊直政家臣となったもののすぐに飛び出したのは、今川家中では徳川や井伊よりも上位にあったという自尊心からかもしれない。それでも、小田原の陣が終わり社会が安定する方向へ進むと、武家として生き残るには大名に仕えなければならない。そこで、今川旧臣の一大勢力でもある井伊氏の配下に入るよう周囲の者がお膳立てしてくれたのであろう。井伊家側でも、一度出奔し、関ヶ原合戦にも出陣していない朝昌を2000石の高禄で取り立てている。この高は、慶長7年(1602)の分限帳では家臣中6番目に位置しており、破格の厚遇といえる。

 大坂冬夏の陣では軍監を務め、陣後には家老に取り立てられた。2代目以降も代々家老役を継承した。2代目の朝真は、母は新野左馬助の娘であり、木俣家2代目の守安とは異父兄弟にあたる。そのような血縁関係も、井伊家重臣の家柄を確立させた要因の一つであろう。

 

  
 参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
有光友学『今川義元』(吉河弘文館、2008年)

  

  典拠史料
『新修彦根市史』6巻
『侍中由緒帳』1
「貞享異譜」(彦根城博物館所蔵、未刊)
 
 

井伊直政家臣列伝 その22 戸塚左太夫 ~勝間田氏の末裔~ 

戸塚氏の出自

 戸塚氏は遠江国榛原郡勝間田庄戸塚の出身という。勝間田庄(勝田と記されることもある)は中世武士勝間田氏の本拠地である。勝間田氏は、『保元物語』に源義朝が率いた関東武士の中、遠江国の者として井伊氏とともに登場しており、鎌倉御家人でもあった。武家の世がはじまった当初、遠江国東部に勢力のあった武家の家である。鎌倉から室町時代にかけて、勝間田氏は勝間田の地の領主として地元を支配していたが、応仁文明の乱の余波で駿河の今川義忠が遠江に出陣してきた際、勝間田城の勝間田修理亮は応戦して討死、一族も離散したという。

 戸塚氏は、明治元年に勝間田へと改姓している。同時期に岡本氏など他の彦根藩士も先祖の本姓へ改めている例があり、勝間田への改姓も由緒ある先祖の姓へ改めたものと推定でき、戸塚氏が勝間田氏の末裔と自認していたと考えられる。

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井伊家重臣

 井伊直政に仕えた戸塚左太夫の諱は、「貞享異譜」では正次とするが、『木俣清左衛門家文書』などでは初代を正長とする。「貞享異譜」では2代を正長と記している。どちらとも判断しがたいため、ここでは通称の「左太夫」を用いる。


 左太夫井伊直政に召し出された経緯は、「侍中由緒帳」「貞享異譜」とも同内容である。そこには、今川氏真へ奉公していた内、旗本戸塚作右衛門より申し越してきたため、氏真へ暇を乞い、大坂へ行って徳川家康に召し出された。大坂で2・3ヶ月おり、関東へ帰国の節に井伊直政に預けられ、この時より井伊家に奉公するようにとの家康よりの上意があったとする。また、直政の箕輪入部の時には足軽15人増の35人組を仰せ付けられたと記す。

 ただし、氏真から暇乞いをして大坂で家康に召し出されたとする年代は特定しがたい。井伊直政が家康家臣となってから家康が大坂へ行ったのは、天正14年に豊臣秀吉に臣下の礼をとったのが最初で、このときは数日間の滞在であった。それ以降家康は豊臣政権の一員として毎年のように上洛し、1・2ヶ月滞在することもあったが、大坂へ行ったことは確認できない。一方、直政が箕輪に入部した時には左太夫はすでに足軽大将であったということなので、これに基づくと天正18年までに召し出されていたことになる。

 一方、別の関係から左太夫の召し出し経緯を推測する。家康への召し出しを推挙した戸塚作右衛門忠之とは、徳川秀忠生母である西郷局の甥にあたる。西郷局の父は戸塚忠春である。つまり、左太夫は同族の西郷局や忠之との関わりにより家康へ召し出されたと考えられよう。

 また、左太夫の妻(=2代目の母)は酒井美作守の娘という。酒井氏は井伊直政の父方の親戚であり、「御一家筋」といわれている。美作守忠員の息子忠政は直政家臣となっている。直政に付けられた背景にはこのような親族関係も考慮されたのではないだろうか。


 左太夫が井伊配下に入ってから、おそらくは天正18年の小田原の陣以降のことであろうが、左太夫の後妻として新野左馬介の娘を迎えている。彼女は先に北条家臣の妻木左近に嫁していたが、のちに左太夫に嫁したという。彼女の姉妹は、木俣・三浦・庵原など井伊配下に付けられた重臣に嫁している。戸塚との縁組みも、直政とその重臣たちのつながりを強固にする政略上のものと考えられる。
 なお、先夫妻木氏との間に生まれていた男女2人の子どもも左太夫方へ引き取り、男子は彦根円常寺開山の露寛和尚になったという。

 左太夫と直政の関係を示す逸話として次のようなものがある。
 直政は、正室の侍女であるおあこが子(のちの直孝)を身ごもったと聞くと、おあこを左太夫に下そうとしたが、左太夫は断ったため直政の機嫌が悪くなり、左太夫は一時期直政の元を離れたという(「井伊年譜」)。実際には、直孝が出生した天正18年2月の直後、直政は軍勢を引き連れて小田原陣へ出陣しており、3月29日からの箱根の山越えの際の逸話に左太夫が登場するので、左太夫が直政から離れたとしてもわずかな期間だったと思われる。

 慶長7年(1602)の分限帳では、戸塚左太夫は1000石を拝領しており、足軽大将を務めた。しかし翌8年に73歳で死去し、家督は2代目左太夫が継承した。

 

  
 参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
 
 
 典拠史料
『新修彦根市史』6巻
『侍中由緒帳』2
「貞享異譜」「井伊年譜」(彦根城博物館所蔵、未刊)
 
 

井伊直政家臣列伝 その21 三浦元成・元定と安久 ~今川旧臣の一族~ 

今川家臣の三浦氏

 直政家臣の中に今川旧臣という由緒をもつ三浦氏が数系統ある。

 三浦氏といえば、相模国三浦を苗字とする武家で、武家の興った平安時代以来の名族である。鎌倉幕府の有力御家人が有名であるが、嫡流が幕府内の対立(宝治合戦)により滅びた後も一族が相模国内で勢力を持ち、室町時代には相模国守護を務めることもあった。戦国時代には、相模守護でもあった戦国大名扇谷上杉氏の配下にあったところ、一族内の家督争いが生じて三浦義同が当主に就くが、この頃勢いを増してきた伊勢宗瑞(北条早雲)が相模に進出してきており、永正13年、北条早雲から攻められて義同父子が討ち死にし、三浦氏は滅亡した。

 三浦氏は多くの系統に分かれており、今川氏の配下にも数系統の三浦氏がいた。そのうち、次の三系統が井伊直政の家臣となっている。

 三浦与右衛門元成
 三浦弥一郎元定
 三浦十左衛門安久・五郎右衛門高連兄弟

 

三浦与右衛門元成
 三浦与右衛門元成は、のちに代々家老を務め、与右衛門・内膳・和泉などと称した家の初代にあたる。

 同家には、天正10年(1582)11月26日付で「三浦与三郎」に宛てた家康の朱印状が伝わっていた。この文書は井伊直政が奉者を務めており、駿河の片山・吉河・方之上の内に計49貫500文を本領として安堵する旨を伝えるものである。宛名の三浦与三郎が元成で、この時直政が取り次いで元成が正式に徳川の配下に入った。元成は長久手陣から井伊隊に加わったといい、直政没後の慶長7年(1602)には620石取であった。武役では、関ヶ原合戦後には弓足軽大将となり、大坂冬の陣には弓足軽大将兼伊賀者支配として出陣している。

 元成の家は、2代目が最終的に1500石取となり3代目から家老を務めた。このように元成の家系が重臣に取り立てられたのは、元成の妻の力によると思われる。元成の妻は新野左馬助の惣領娘であった。左馬助は、井伊氏の親族にあたり、井伊直盛没後の井伊氏を支えた人物である。元成妻の妹たちは木俣守勝・戸塚正長・庵原朝昌ら直政配下の者の妻となっており、彼女らは姻戚関係により直政とその重臣をつなぐ役割を果たしたといえる。

 中でも、元成妻は新野娘のうち「惣領娘」つまり年長であった。新野氏・三浦氏いずれも今川家臣であったことをあわせて考えると、今川が安定していた時代に元成へ嫁いでいたのではないだろうか。その縁を通じて、元成ら三浦一族が直政配下に入った可能性が考えられる。

 次に見る元定の家と比較すると、直政の時代には両名の知行高は同じであり同等の立場であったが、次世代以降元成の家系が重臣に取り立てられ、両家の処遇に格差が生じている。その要因は、元成の息子が新野左馬助の孫という血統に求められるだろう。

 

三浦弥一郎元定
 三浦弥一郎元定は、直政の配下に入る際に元成と行動を共にしていたと思われる。

 天正10年、三浦与三郎に宛てた家康朱印状と同じ日付のものが「三浦弥一郎」へも出されている。駿河の吉河・北脇の内計73貫余の本領安堵状である。つまり、元成と元定は同時に家康に対面して臣下の礼をとり、それぞれ本領安堵状を受け取ったと考えられる。この時期は、武田旧領をめぐる天正壬午の乱で徳川と北条の講和が成立した直後にあたり、11月から12月にかけて、直政が奉者となった同様の本領安堵状が武田旧臣に対して多く出されている。多くは甲斐の者であるが一部には駿河を本領とする者もいる。

 天正10年の本領安堵状では元定の方が領知高は多かったが、直政配下では対等な処遇を受けており、慶長7年の分限帳では、元定は元成と同様の620石取であった。

 その後、慶長9年に嫡男の元春に家督を譲る。しかし元春は慶長14年に落馬して死去したため、次男長好が家を継いだ。長好は最終的に700石取で弓足軽大将を務めている。

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2通の本領安堵状に登場する吉河

 

三浦十左衛門安久
 三浦十左衛門安久は、家に伝来した史料がまとまって残っており、研究の蓄積もある人物である。

 安久は、今川氏真が武田・徳川から侵攻されて大名としての今川氏が滅亡した後も氏真の傍にいた1人である。元亀2年(1571)10月、氏真は安久に対して扶持を断絶する旨の判物(『戦国遺文』2492)を下しており、この時まで安久は氏真のもとにいたと考えられる。

 その後、天正10年3月には、安久は氏真の元に再び仕えたいと家康重臣酒井忠次へ頼んでいることがわかる書状が伝わる。氏真の元を離れてからの動向は不明であるが、駿河は武田の領国となっていたため、本領の駿河国内にいたのであれば武田に服属していたのであろう。天正10年年始より、織田信長の武田出兵に呼応して家康が駿河に進出し、3月までには駿河を手中に収めていた。安久はこのような状況で、新たな支配者に対して旧主へ仕えることを望んだのである。しかし、それは叶えられなかった。

 同年8月には、安久は徳川配下として出陣している。この時、徳川と北条が武田旧領で対陣しており、8月22日には敵兵を討ったとして酒井忠次から褒状を下されている。忠次は旧武田領へ先鋒として向かっており、安久もその軍勢に加わったのであろう。

 安久が井伊直政の配下に入ったのは、天正12年の長久手の陣以前である。この陣で直政の部隊に属して戦っている。直政を大将とする部隊は天正壬午の乱終結後に形成され、小牧・長久手の陣が初陣であったことから、安久は井伊隊形成当初から付属されていたと考えられる。

 井伊配下での安久の活躍はいくつも知られている。

 天正18年(1590)の小田原の陣では、小田原城を囲む井伊本隊とは離れ、津久井城(相模原市)へ向かい敵兵を討つ戦功を挙げている。これを賞する秀吉の朱印状が直政に宛てて下され、三浦家に伝来した。

 朝鮮出兵では、直政は江戸城の留守を守ったが、安久は使者として現地へ向かっており、対馬壱岐までの関所切手が伝わる。関ヶ原合戦では、本多忠勝が一人で戦い敵兵を討ったところに安久が出くわし、互いに武功の証人となる約束を交わしたという。

 また、慶長7年(1602)に直政が死去した時、それを江戸にいる秀忠へ伝える使者を務めたのも安久であった。軍事能力に加え、使者として登用されるだけの能力が安久にはあったのであろう。徳川諸将から安久に宛てた書状がまとまって残っていることから、交友関係が広かったことも窺える。
 安久が旧主今川氏真の傍に仕えることを認められず、新規編成された井伊隊へ付けられたのも、その能力が高く評価されたためだろう。

 

三家の関係
 元成と元定は、天正10年の時点で行動を共にしていたと考えられるが、両家は「一家」とする記述もあり(「御侍中名寄先祖付帳」)、近い親族であったことがわかる。
 なお、「寛政重修諸家譜」には
 三浦義次 小次郎・八郎左衛門
   元秋 小次郎・八郎左衛門
   義勝 小次郎・小左衛門・八郎左衛門
   義景 小左衛門
と続く家が記される。この家には、永禄12年に「三浦小次郎」に宛てた今川氏真朱印状が伝わっていた(『戦国遺文』2361、2426など)が、元定の家にも同じ「三浦小次郎」宛ての氏真朱印状(『戦国遺文』2380)が伝わっていた。内容的にもこの小次郎は同一人物と考えられ、『戦国遺文』でも義次に比定されている。「寛政重修諸家譜」所収の家と元定は先祖が同じと考えられ、年代から判断して元定の父が小次郎義次と推定できるだろう。
 一方、小和田哲男氏が紹介した三浦元成の系図(三浦尊誉氏所蔵「三浦氏略系」)にも義次が登場する。元成の祖父を義次とするが、この人物の通称は左馬介で、桶狭間で戦死しており、小次郎義次とは別人と判断できる。

 小次郎(義次)と安久は、ともに駿府から落ち延びた今川氏真に従い、行動を共にしていた。永禄12年から元亀2年まで両名に出された氏真朱印状には同内容の物が多い。その中に、安久は下方という地で百姓職、義次は同所の代官職を安堵するというものがあり、両名は近い関係だった可能性が高い。

 ただ、安久の家に伝わった系図では、元定・元成との関係は記されない。家伝の系図では安久を三浦義同の曾孫と位置づけている。義同は相模の戦国大名として存在の明らかな人物である。安久は三浦氏の嫡流に連なる系統と主張するためこのような系図を作成したと思われ、すぐには信用しづらいだろう。

 

  
 参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)
小和田哲男著作集2巻 今川家臣団の研究』清文堂

酒入陽子「富士山御師三浦家とその由緒」(『富士山御師の歴史的研究』山川出版社

 
 典拠史料
『新修彦根市史』6巻
『侍中由緒帳』2巻・6巻
「貞享異譜」「御侍中名寄先祖付帳」(彦根城博物館所蔵、未刊)
 『彦根城博物館古文書調査報告書7 三浦十左衛門家文書・池田愿同家文書調査報告書』
『戦国遺文 今川氏編』
 

井伊直政家臣列伝 その20 長野業実 ~箕輪城主の一族~ 

 井伊直政が初めて城主となった上野国箕輪城の元城主である長野氏の一族も井伊家の重臣にいる。
 

上野の有力国衆
 箕輪の長野氏といえば、戦国時代の長野業政が有名である。上野国は、関東管領でもあった上杉氏が代々守護を務めていたが、上杉氏が2代にわたり家督争いをしており、さらに隣国である小田原の北条氏や甲斐武田氏らが上野への侵攻をはかった。さらに、北条氏の侵攻により越後へ落ち延びた上杉氏の家督を継承した長尾景虎上杉謙信)は、上野国内を通り小田原へと兵を向けた。

 このような争乱の中、長野業政は西上州の有力国衆として存在感を発揮していた。一族や近隣に住む国衆をとりまとめ「箕輪衆」と呼ばれる集団として結束して行動していた。謙信が関東を目指した際には、業政はいち早く参陣しており、集結した武士の名を書き上げた「関東幕注文」に「箕輪衆」として「長野」(業政)をはじめ19人の名が列記されている。

 業政が永禄4年(1561)に死去すると、武田信玄による西上州侵攻が本格化し、永禄9年、箕輪城は落城し、城主長野氏業は自害した。

 

由緒書にみる長野業実の出自
 井伊直政家臣の長野業実は、長野業政の孫という由緒をもつ。『侍中由緒帳』「貞享異譜」では、業実は長野信濃守(業政)の子の出羽守業親の嫡子とする。業実の母を直政がかねて存知していたため、直政の口添えにより家康へ仕えることになった。その後、直政のもとで小姓を勤めたというが、「貞享異譜」によるとそれは井伊家が箕輪に入ってからのことという。また、甲州新府若神子台の戦い以降、出陣したとある。これを読む限り、業実は長野業政の子孫と考えられるが、他の資料から別の側面が読み取れる。

 「御侍中名寄先祖付帳」によると、元の名は浜河といい、父は浜河出羽という甲州者という。その後向坂という名字を名乗り、最終的には先祖の氏である長野を称したという。また、甲州崩れの時、業実は12・3歳で、直政の取り立てで家康へ御目見し、その後直政のもとで小姓として召し仕われたとも記す。

 

業実の武功
 一方、系譜史料以外にも若き日の業実の履歴をたどることができる手がかりがある。それは、天正18年(1590)の小田原の陣でのことである。

 小田原の陣のうち、豊臣勢が小田原城を攻撃した唯一の戦果ともいえるのが井伊隊による篠曲輪の夜襲であった。このとき、業実は敵首を取る戦功があったとして、近藤秀用とともに秀吉の面前に召し出され、秀吉からは馬を、家康からは備前三郎国宗の刀を拝領した。そのことは井伊家以外の史料にも記載されており、「家忠日記追加」や「武徳大成記」などでは伝蔵を「向坂伝蔵」と記す。

 

業実の履歴
 では、上記のような各種史料の記述をもとに、業実の履歴を考えていきたい。

 まず、業実の父について。「御侍中名寄先祖付帳」には浜川出羽とある。『侍中由緒帳』などとも出羽という通称は一致しており、「関東幕注文」などから「浜川」という名字の長野一門がいることが確認できるため、業実の父は長野氏一族の浜川氏とみてよいだろう。浜川氏は箕輪近くの浜川を本拠としていた。箕輪城が武田方に攻められて落城すると、周辺国衆は武田方に属すことになり、その中に浜川出羽もいたと考えられる。

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 業実が徳川方に入ったのは「甲州崩れ」の時ということなので、天正10年の武田氏滅亡からその旧領をめぐる徳川と北条の争いの中でのことであろう。

 天正10年10月、徳川と北条の争いは和睦となり、その結果上野国は北条氏が領有することとなった。そのため、もし浜川氏が地元に勢力を置いた状態であれば、北条の配下に入ることになり、跡継ぎを徳川に預けることは考えられない。業実一家は上野の本拠地を離れていたと考えるのが自然であろう。

 『侍中由緒帳』などには、業実の母を直政がかねてご存知であった関係で業実の出仕となったとする。業実の母の実家が徳川の勢力下にあり、そこに業実が上野から逃れて身を寄せたため、直政を介して家康の近習として出仕することになったのであろうか。浜川の名字を名乗らなかったのも、このような出自を隠すためだったかもしれない。業実は一時期、向坂を名乗っているので、母方が向坂氏の可能性も考えられる。

 業実は家康の元で近習として仕えたという。天正10年当時12・3歳ということであり、近習として仕えるのに相応しい年齢である。ここでの出仕は、業実が長野氏の一門である浜川氏の出身という政治的判断によるものであろう。滅亡しかけた家の跡継ぎという境遇で徳川へ出仕したという点で、直政とよく似た道をたどったといえるかもしれない。

 天正18年の小田原の陣に際し、業実は井伊隊に付けられて出陣することになった。この時の業実について、彦根藩の諸資料では「長野伝蔵」と記すが、「家忠日記追加」や「武徳大成記」などでは「向坂伝蔵」とする。このような違いが生じた理由を考えると、幕府関係の諸史料であえて名字を替える理由は見当たらない。一方、彦根藩では、江戸時代に存在する長野氏の先祖ということであり、先祖の功績を示そうとして長野の名字を用いたと考えれば、改変理由は存在する。おそらく、小田原陣後までは、業実は向坂伝蔵と称していたと思われる。

 直政は、小田原陣後に箕輪12万石の城主となると、家康から付けられていた与力・同心を家臣とし、12万石の中から家臣へ知行を与えた。業実もこの時に直政家臣になったと考えられる。また、箕輪城主直政のもと、業実は浜川郷に知行1貫500文を拝領している(「侍中由緒帳」)。あえて浜川郷に知行を下されたのは、ここが父祖以来の本領だったからであろう。箕輪は先日まで敵方北条配下の地であり、そこを治めるにあたり、地元の旧領主一族である業実の存在は大きかったのではないだろうか。業実を長野業政の孫という系譜上の位置づけにして、長野氏を称し、その存在を地域統治に利用する狙いがあったのではないだろうか。

 慶長7年(1602)の分限帳では、長野民部(業実)は2000石を拝領しており、井伊家中第6位に位置している。箕輪・高崎時代に地元の武士をまとめて直政家臣に組み入れたが、その上州衆のトップに業実が位置しているといえる。

 
 参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)

『新編高崎市史』通史編2 中世

 

 典拠史料
『新修彦根市史』6巻
『侍中由緒帳』1
「貞享異譜」「御侍中名寄先祖付帳」(彦根城博物館所蔵、未刊)
 
 

井伊直政家臣列伝 その19 河手良則 ~直政の義兄~

 直政と親戚関係を築いて井伊家の重臣となった人物に河手良則がいる。良則は直政の姉を妻とした。

 

河手氏の出自
 河手良則の出身は三河国武節(愛知県豊田市)で、その近くの河手(江戸時代の村名は川手村)が苗字の由来の地である。

 河手氏の先祖は山田氏、設楽氏、武節氏とも名乗っており、良則の父の時代には武節城や河手城(川手城)を本拠としていた。武節や河手は奥三河の山間部に位置し、美濃・信濃との国境に近い。

 

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 河手氏の系図によると、良則の父は山田新治郎景隆とする。河手の地内八幡神社は山田氏の勧請といい、天文22年(1553)の年紀を持つ同社所蔵の鰐口銘に「新次郎景隆」とある。これが良則の父であることは間違いないだろう。

 なお、『戦国遺文 今川氏編』や『戦国人名辞典』(吉川弘文館)などには、この頃三河にいた人物として山田景隆が記される。但し、この景隆は今川家臣で、その通称は新右衛門である。三河武士の今川への逆心が見つかるとその弟へ跡職を申し渡す旨を伝えるなど、その行動を見る限り三河支配にたずさわった今川方の人物といえる。また、家康が今川配下にいる間、岡崎城代を務めていたともいう。桶狭間の戦いの際には参陣しており、今川義元戦死の知らせを受けると、自軍の者が敗走する中、景隆は馬を返して敵へ向かい、討死したという。これらの履歴を比較すると、良則の父とは同名であるが別人と判断できる。
 
 良則の祖父義尭は、山田又四郎、のち河手主水助と称したという。松平清康(家康の祖父)の配下にあり、享禄2年(1529)の吉田城攻めで一番に城中に攻め入ったとして清康から山田又四郎へ下された感状の写しが「河手家略系譜」に記されている。

 景隆の時代の三河は今川の領国となっており、景隆も今川配下にあったが、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いの後、情勢が一変する。

 「河手家略系譜」によると、甲州の武田氏が押し寄せてきたため、景隆は両城を守ることは難しいと判断して武節城を自焼して河手城に入るが、松平からの加勢は来ず、結局降参して武田方へ城を明け渡すことを決断する。息子の良則と正興は武田へ降参し、景隆自身は三男太郎とともに脱出して信州立野に籠もった。「河手家略系譜」には、河手文左衛門(良則)・余一(正興)兄弟に宛てた武田信玄からの本領安堵状の写しが記されており、その日付は永禄3年10月13日とある。しかしこの頃武田氏が三河まで出陣したことは確認できない。武田氏は永禄11年の駿河侵攻に成功すると、元亀元年(1570)から三河遠江へと出兵している。二俣城を落城させ、奥平氏をはじめ東三河の国衆を配下に入れた。このような状況をふまえると、武節城や河手城が武田氏の攻撃を受けて落城し、河手氏が武田配下に降ったのも元亀年間のことではないだろうか。

 いずれにせよ、良則とその弟は一時期武田氏の配下にあった。良則は山県昌景配下、弟の正興は穴山氏の配下に属したという。

 

徳川配下への帰属
 一時は武田に降参した良則がいつ徳川家康のもとに入ったのであろうか、その時期には史料により諸説ある。

 「河手家略系譜」には、天正元年(1573)に徳川信康の軍勢が武節を攻めたため城を開いて徳川方に降り、息子を人質に出したという。
 「貞享異譜」には、天正5年に良則が家康に召し出されて小姓を勤めたとする。
 「侍中由緒帳」では天目山で武田勝頼が没落して以降とあり、天正10年の武田氏滅亡後のこととする。

 奥三河の国衆の動向を見ると、いったんは武田の軍事力によりその配下に降ったが、天正元年、武田信玄の死去を察知した奥平貞能が家康方についたことで奥三河が徳川と武田の対峙する最前線となり、天正3年の長篠の合戦に勝利したことで徳川が三河を勢力下におさめた。良則が徳川方へ入った年次を特定することは難しいが、このような奥三河全体の動向の中にあったと考えるのがよいだろう。

 

井伊家中での良則
 良則は直政の姉である高瀬を妻とすることで直政と親戚関係を結んだ。良則にはすでに息子良次がおり、先妻は死去していた。そのような良則に直政の姉を後妻として嫁がせたのは、当時の武家の婚姻で一般的であったように、政治的な結びつきのためと判断できる。

 婚姻の年代は不明であるが、直政にとって義兄であったから家老になったというよりも、直政配下に付属させようという方針が先にあって姻戚関係を結んだのではないだろうか。

 徳川家臣の中で井伊氏を選んだのは、一つには地域性が配慮されたと考えられる。直政配下には、国衆井伊氏とつながりの深かった遠江から東三河の国衆を付属させている。新たに徳川家臣となった者を組織化して直政をそのトップに据えたともいえる。そのような構想のもとで良則を井伊配下に入れることを考えたのではないだろうか。他の直政重臣も直政親族と婚姻関係を結んでおり、良則と直政姉との婚姻もその一環といえる。

 良則は、長久手陣から出陣し、小田原陣、九戸陣にも御供したという。長久手陣は井伊隊全軍が出陣した初陣でもあり、その時から良則は井伊隊に属していたことがわかる。直政が箕輪城主となると、良則は50騎の士組を預けられ、家老役を務め、最終的に4000石を下された。また、関ヶ原合戦の際には高齢のため出陣せず、高崎城の留守を守る城代を務めている。

 良則は、井伊家が佐和山に入ってまもなくの慶長6年(1601)8月に死去している。翌年死去した直政を火葬した跡に建てられた長松院(彦根市中央町)には良則の位牌も祀られている。佐和山からみて芹川の先にあり、「彼岸」にあたるこの地で良則も葬られ、供養されたのであろう。

 

大坂夏の陣で討死した河手良行
 良則には息子良次がいたが、直政の姉との間に娘が生まれ、松平石見守康安の三男成次(河手家の養子となって良行と名乗る)を娘婿として良則の跡継ぎとし、良次は二男の扱いとされた。

 良則が死去すると、その跡式は良行が継承した。家老、50騎の士大将を務め、4000石を下された。慶長7年の分限帳にも「4000石 川手主水」と記される。鈴木重好に次いで井伊家家臣中2番目に多い知行高である。

 良行は大坂の陣で士大将として出陣する。その陣立では、冬の陣では跡備え、夏の陣では先備えとされた。夏の陣で井伊家が敵方と対戦して戦果を挙げたのは、慶長20年5月6日の若江合戦である。大坂方の大将木村重成を討ち取って大坂方へダメージを与え、翌日の総攻撃につながる重要な戦いであった。この戦いで、先手大将である良行は討死した。圧倒的に味方有利で討死した者も少ない戦いであった中、士大将が討死したのは、良行がここで討死しようと思い詰めていたからという。

 「井伊年譜」では「子細あり」として具体的な理由を示さないが、「河手家略系譜」では、冬の陣で跡備えに置かれたことの遺恨があったとする。冬の陣で跡備えとなった良行は先陣を賜わることを直孝に願い出たが聞き入れられなかった。12月4日の合戦では、木俣隊が軍法を犯して城攻めしたにもかかわらず、傷を負った士大将木俣守安が直孝から慰労されたのに対し、自分は軍法を守って出陣せず武功をたてる機会も得られず無念であり、城に乗り込んで死を遂げようとするが、結局慰撫されてその場は収まった。冬の陣でのこのようなやりとりがあったため、良行は夏の陣で討死すると決意を固めた。事前に実父と兄に暇乞いして戦いに臨み、敵と対峙すると一番に乗り出して堤上に乗り上がり、鎗を取って敵方に突きかかり最期を遂げたという。

  このとき嫡子良富はまだ5歳であったが、父の跡式3000石を賜わって家を継承した。ところが、良富は寛永5年、18歳のときに死去してしまう。そのため、無嗣断絶となり、河手家の嫡流は途絶えることとなった。

 このように、河手家は井伊家にとって由緒ある重臣の家であるとして、幕末になり再興されている。先に新野家を再興していた新野左馬助親良(藩主井伊直中の男子)の二男が河手家を再興し、主水と称した。禁門の変の際の京都守衛、長州戦争、戊辰戦争彦根藩の出兵が続く中、士組を率いて出陣している。

 

河手諸家
 良則の長男である良次は、父とともに井伊家に仕え、長久手合戦から天正19年の九戸陣まで出陣したが、娘婿(良行)迎えて父の跡継ぎとすることになったことに伴い井伊家を離れた。武節の苗字を名乗って京極高知へと仕官したが、慶長6年に父の元に呼び戻されている。同年に良則が死去しているため、それと連動してのことであろう。大坂陣には鎗奉行として出陣し、帰陣後旗奉行、家老役となったという。家老となったのは、大坂夏の陣で討死した良行の代わりと考えられる。知行高は「侍中由緒帳」と「貞享異譜」で異なるが、最終的に2500石であったことは一致する。寛永6年10月に死去するまで務めた。

 良次の跡は、嫡男衞士之介良矩に1000石、その弟3人に200石ずつ分知された。しかし嫡男良矩は藩主に背いて高取藩主植村出羽守家政のもとへ出奔したという。二男平兵衛良真は着到役などを務めたが、病気につき知行を返上して愛知郡湯屋村に蟄居して家名断絶したという。三男七左衛門良実の家は代々彦根藩士として仕えていたが、天保7年、良則から数えて12代目の鉚太郎の時に扶持を取り上げられ断絶した。

 それに対し、四男文左衛門良雄の家はつつがなく継続されている。さらに、文左衛門家に加え、良雄の二男が分家した藤兵衛家、藤兵衛二男が分家した藤十郎家と、良雄の子孫は三家にわかれて幕末まで継承された。

 良次の五男である四方左衛門は、曽我四方左衛門の養子となってその跡を継いだが、その後苗字を実父方の河手へと改めている。良次の知行を分知されたわけではないが、改名したことで河手一族と処遇された。

 四方左衛門家を河手一族としたことや、良雄の子孫に分知させたのは、主水家、良次の嫡男と次男の三家が断絶したため、その代わりとしたと理解できる。

 また、良則の甥(弟正興の息子)内記正武も井伊家に仕えている。良則を頼り、箕輪で召し出されたという。慶長7年の分限帳では、「100石 川手内記」と記されるが、慶長12年の分限帳では500石取で足軽大将と記される。大坂冬の陣の陣立でも20人の鉄砲足軽大将と記される。正武の跡継ぎには宇津木久豊の弟を養子に迎えたが、岡本宣就の嫡子宣隆と騒動を起こして家名断絶となった。

 
   
 参考文献
野田浩子『井伊直政 家康筆頭家臣への軌跡』(戎光祥出版、2017年)

 『愛知県の地名』(平凡社

 

 典拠史料
「河手家略系譜」(尊経閣文庫蔵)
『侍中由緒帳』3巻、5巻
「侍中由緒帳」「貞享異譜」「井伊年譜」彦根城博物館所蔵、いずれも未刊)
『戦国遺文 今川氏編』2巻
『新修彦根市史』6巻